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{{Infobox scientist | name = アレッサンドロ・ボルタ | image = Alessandro Volta.jpeg | caption = Alessandro Giuseppe Antonio Anastasio Volta | birth_date = 1745年2月18日 | birth_place = [[ファイル:Flag of Milan.svg|border|25x22px]] [[ミラノ公国]] [[コモ]] | death_date = {{death date and age|1827|3|5|1745|2|18}} | death_place = [[ファイル:Flag of Austria.svg|border|25x22px]] [[ロンバルド=ヴェネト王国]] コモ | nationality = {{ITA}} | field = [[物理学]]、[[化学]] | known_for = [[ボルタ電池]]<br />[[メタン]]の発見 }} [[ファイル:Lire_10000_(Alessandro_Volta).JPG|250px|サムネイル|アレッサンドロ・ボルタの肖像がデザインされている10000リラ紙幣]] '''アレッサンドロ・ジュゼッペ・アントニオ・アナスタージオ・ヴォルタ'''伯爵('''Il Conte Alessandro Giuseppe Antonio Anastasio Volta'''、[[1745年]][[2月18日]] - [[1827年]][[3月5日]])は、[[イタリア]]<ref name = "wmnqsy">Giuliano Pancaldi, ''"Volta: Science and culture in the age of enlightenment"'', Princeton University Press, 2003.</ref><ref name = "nxukip">Alberto Gigli Berzolari, ''"nolta's Teaching in Como and Pavia"''- Nuova voltiana</ref>の[[自然哲学者]]([[物理学者]])。[[電池]]([[ボルタ電池]])を発明した。日本では、一般には'''ボルタ'''と表記されることが多いため、本稿でもこの表記を用いる。 == 前半生と実績 == 1745年2月18日、[[ミラノ公国]][[コモ]](現イタリア北部)で生まれた<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Volta, Alessandro|volume=28|page=198}}</ref>。1774年、コモ国立ギムナジウム(Liceo Ginnasio Statale Scuola Reale di Como) 物理学教授となる<ref name="EB1911" />。1775年、[[電気盆]](静電気をためる器具)を改良し、広く紹介した。その印象が非常に強かったため、電気盆自体は1762年にスウェーデン人教授[[ヨハン・ヴィルケ]]が発明したにもかかわらず、一般にはボルタが発明者と誤って紹介されることが多い<ref>{{cite book |last=Pancaldi|first=Giuliano|date=2003|title=Volta, Science and Culture in the Age of Enlightenment|publisher=Princeton Univ. Press|url= https://books.google.co.jp/books?id=hGoYB1Twx4sC&pg=PA73&redir_esc=y&hl=ja |isbn=9780691122267}}, p.73</ref>。 1776年から1777年にかけ、沼に発生する発火性のガス(現在の[[メタン]])が[[水素]]とは異なる物質であることを発見。密閉容器にメタンを入れ、[[放電|電気火花]]で[[燃焼]]させる実験を行った。また、今日では[[静電容量]]と呼ばれているものを研究して電位(V)と電荷(Q)を分けて研究する手段を確立し、それらが比例することを発見した。この業績から、後に電位差の単位が[[ボルト (単位)|ボルト]]と名付けられることになった。 1779年、[[パヴィア大学]]で実験物理学の教授となり<ref name="EB1911" />、この職を25年務めた。1782年にフランス、ドイツ、オランダ、イギリスを旅し、多くの科学者と知り合った<ref name="EB1911" />。1791年、[[王立協会]]の[[コプリ・メダル]]を受賞した<ref name="EB1911" />。1794年、テレーザ・ペレグリーニと結婚し、3人の息子をもうけた<ref>{{cite book2 |language=en | last = Munro |first= John | title = Pioneers of Electricity; Or, Short Lives of the Great Electricians | year = 1902 | publisher = The Religious Tract Society | location = London | pages = 89 – 102 | url = https://archive.org/details/pioneerselectri00munrgoog}}</ref>。1801年に[[ナポレオン・ボナパルト]]により[[パリ]]に招聘され、ボルタはナポレオンに電気の実験をやってみせた<ref name="EB1911" />。 == ボルタとガルヴァーニ == 1791年ごろから、ボルタは[[ルイージ・ガルヴァーニ]]が「動物電気」と名付けた現象を研究しはじめた。それは、2種類の金属をカエルの脚に接触させると、その筋肉がけいれんするという現象である([[ガルヴァーニ電気]])。ボルタは、カエルの脚が電気伝導体(いわゆる[[電解質]])であり、同時に検電器として機能していると考えた。彼はカエルの脚の代わりに[[塩化ナトリウム|食塩]]水に浸した紙を使い、それを2種類の金属で挟むことで電気の流れが生じることを確かめた。こうして彼は[[イオン化傾向|電気化学列]]を発見し、電解質を挟んだ2種類の金属[[電極]]で構成される[[ガルバニ電池]]の[[起電力]]は、2つの電極間の[[標準電位|電極電位]]の差だという法則を見出した(そのため、同じ金属では電位が等しいため、起電力が生じない)。これをボルタの法則とも呼ぶ。 1800年、動物電気をカエルの筋肉自体に蓄えられていたものだというガルヴァーニの説への反証として、ボルタは一定の電流を作り出す初期の[[化学電池]]である[[ボルタ電池|ボルタの電堆]] (voltaic pile) を発明した<ref name=Routledge>{{cite book |title=A popular history of science |author=Robert Routledge |url= https://books.google.co.jp/books?id=VO1HAAAAIAAJ&pg=PA553&redir_esc=y&hl=ja |page=553 |edition=2nd |year=1881 |publisher=G. Routledge and Sons}}</ref>。ボルタは最も発電効率のよい金属電極の組み合わせを[[亜鉛]]と[[銀]]だとした。当初、[[塩水]]を入れたワインゴブレットに2種類の金属電極を入れて1つの電池とし、それらを直列につないで実験していた。ボルタの電堆はゴブレットの代わりに塩水を染み込ませた紙を使ったものである。 == 世界初の電池 == 電堆の発表に際して、ボルタは[[ウィリアム・ニコルソン (化学者)|ウィリアム・ニコルソン]]、[[ティベリウス・カバルロ]]、[[エイブラハム・ベネット]]の影響に敬意を表した<ref>{{cite journal2 |language=en | last=Elliott |first= Paul | title=Abraham Bennet F.R.S. (1749-1799): a provincial electrician in eighteenth-century England | journal=Notes and Records of the Royal Society of London|publisher=Royal Society| volume=53|issue=1 | pages=59–78 | date=January 1999 | jstor=531928 | doi=10.1098/rsnr.1999.0063}}</ref>。 ボルタのもう1つの発明として、拳銃の遠隔操作がある。彼は[[ライデン瓶]]に蓄えた電気を[[コモ]]から[[ミラノ]]までの約50kmの距離で送り、ピストルを発射させた。導線で電流を送るために、木の板を使って地面から絶縁した。この発明は[[電信]]の考え方と同じであり、電気を使った通信のさきがけとなった<ref>{{Cite web2|language=en|url=http://chem.ch.huji.ac.il/history/volta.htm|title=Alessandro Giuseppe Antonio Anastasio Volta|website=The Hebrew University of Jerusalem|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20090727071114/http://chem.ch.huji.ac.il/history/volta.htm|archive-date=27 July 2009|access-date=14 October 2024}}</ref>。 [[ファイル:VoltaBattery.JPG|thumb|right|ボルタの電堆]] ボルタが作った電池は世界初の[[化学電池]]とされている。[[亜鉛]]と[[銅]]の2種類の電極を使っていた。[[電解液]]には[[硫酸]]または[[塩化ナトリウム]]と[[水]]を混ぜた食塩水を使った。電解質は 2H<sup>+</sup> と SO<sub>4</sub><sup>2-</sup> という形で存在している。亜鉛は電気化学列上で銅や水素よりも高い順位にあるため、負の電荷を持つ硫酸塩 (SO<sub>4</sub><sup>2-</sup>) と反応する。正の電荷を持つ水素イオン([[陽子]])は銅から[[電子]]をもらい、水素ガス H<sub>2</sub> を発生する。このようにして亜鉛の電極が負、銅の電極が正となる。 2つの電極をつなげると、電流が流れる。このとき、次のような化学反応が起きる。 * 亜鉛 : <chem>Zn -> Zn^2+ + 2e-</chem> * 硫酸 : <chem>2H+ + 2e^- -> H2</chem> 銅は反応せず、単に回路を形成する電極として作用する。 この電池には欠点もある。たとえ薄くても硫酸は危険であり、扱いにくい。また、水素ガスが完全には放出されず、銅電極の表面に蓄積して電極と電解液の間の障壁を形成するため、電池の発生する電力は徐々に小さくなっていく。同じ原理の電池は例えば[[レモン]]に2種類の電極を刺すことでも実現でき、学校の理科の実験などでよく使われている。 == 晩年と死後 == ボルタは[[ベンジャミン・フランクリン]]と[[ナポレオン・ボナパルト]]の崇拝者だった。 1815年、[[オーストリア皇帝]][[フランツ2世]]はボルタに敬意を表し、[[パドヴァ|パドヴァ(パドア)]] (Padova) 哲学教授の称号を贈った。1810年には[[伯爵]]に叙されている。 1819年にコモ近辺のカムナーゴ(現在のカムナーゴ・ヴォルタ。[[分離集落]])に隠棲し、1827年3月5日に同地で死去し、同地に埋葬された。 1881年、ボルタを記念し、[[電圧]]の基本単位の名は[[ボルト (単位)|ボルト]]とすることが決まった。 彼の肖像は、[[ユーロ]]導入前のイタリアの10,000[[イタリア・リラ|リラ]]紙幣に、ボルタ電池と共に描かれていた。 == 脚注・出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ボルタ電池]] * [[ボルト (単位)]] * [[ルイージ・ガルヴァーニ]] ==外部リンク== {{Commonscat}} * {{Cite Catholic Encyclopedia|wstitle=Alessandro Volta}} * [https://web.archive.org/web/20131130025715/http://electrochem.cwru.edu/encycl/art-v01-volta.htm Volta and the "Pile"] * [https://web.archive.org/web/20130129183611/http://www.ideafinder.com/history/inventors/volta.htm Alessandro Volta] * [https://web.archive.org/web/20080801190902/http://www.italian-american.com/volta.htm Count Alessandro Giuseppe Antonio Anastasio Volta: A Pioneer in Electrochemistry] * [http://www.corrosion-doctors.org/Biographies/VoltaBio.htm Alessandro Volta (1745-1827)] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほるた あれつさんとろ}} [[Category:アレッサンドロ・ボルタ|*]] [[Category:イタリアの物理学者]] [[Category:イタリアの発明家]] [[Category:イタリアの伯爵]] [[Category:イタリアの貴族]] [[Category:啓蒙時代の科学者]] [[Category:コプリ・メダル受賞者]] [[Category:イタリア・リラ紙幣の人物]] [[Category:オランダ王立芸術科学アカデミー会員]] [[Category:プロイセン科学アカデミー会員]] [[Category:ゲッティンゲン科学アカデミー会員]] [[Category:バイエルン科学アカデミー会員]] [[Category:パヴィア大学の教員]] [[Category:コモ出身の人物]] [[Category:1745年生]] [[Category:1827年没]]
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