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{{Infobox scientist |name = ルドルフ・クラウジウス |image = Rudolf Clausius 3.jpg |image_width = |alt = |caption = |birth_name = |birth_date = {{生年月日と年齢|1822|1|2|死去}} |birth_place = {{PRU1803}} [[コシャリン|ケスリーン]] |death_date = [[1888年]][[8月24日]] |death_place = {{PRU1803}} [[ボン]] |death_cause = |residence = <!-- 居住 --> |citizenship = <!-- 市民権 --> |nationality = |field = [[理論物理学]] |workplaces = ベルリン王立砲工学校<br />[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]] |alma_mater = ベルリン大学<br />[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ハレ大学]]<br />[[チューリッヒ工科大学]]<br />[[ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルク|ヴュルツブルク大学]]<br />[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]] |doctoral_advisor = |academic_advisors = <!-- 他の指導教員 --> |doctoral_students = |notable_students = <!-- 他の指導学生 --> |known_for = [[熱力学第一法則]]・[[熱力学第二法則|第二法則]]の定式化、[[エントロピー]]の概念の導入 |influences = [[ジョン・ティンダル]] |influenced = <!-- 影響を与えた者 --> |awards = [[コプリ・メダル]](1879年) |author_abbreviation_bot = <!-- 命名者名略表記(植物学) --> |author_abbreviation_zoo = <!-- 命名者名略表記(動物学) --> |signature = Rudolf Clausius signature.svg |signature_alt = |footnotes = <!-- 備考 --> }} '''ルドルフ・ユリウス・エマヌエル・クラウジウス'''(Rudolf Julius Emmanuel Clausius, [[1822年]][[1月2日]] - [[1888年]][[8月24日]])は、[[ドイツ]]の[[理論物理学|理論物理学者]]。[[熱力学第一法則]]・[[熱力学第二法則|第二法則]]の定式化、[[エントロピー]]の概念の導入など、[[熱力学]]の重要な基礎を築いた。 == 生涯 == 1822年、[[プロイセン王国]]領[[ポメラニア|ポンメルン]]のケスリーン(現[[ポーランド]]領[[コシャリン]])にて誕生。父は牧師であり、また、[[小学校]]の[[校長]]でもあったため、クラウジウスはその学校で初等教育を受けた。その後はシュテッティン(現[[ポーランド]]領[[シチェチン]])の[[ギムナジウム]]で学んだ。 1840年[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]に入学。当時のベルリン大の講師としては、物理学者の[[ゲオルク・オーム]]、数学者の[[ペーター・グスタフ・ディリクレ]]、[[ヤコブ・シュタイナー]]、そして歴史学の[[レオポルト・フォン・ランケ]]がいた。クラウジウスはランケの影響からか歴史学にも興味を持ったが、最終的に選んだのは物理学だった。経済上の理由から在学中に[[教員免許]]を取り、1850年までベルリンのフリードリヒ・ヴェルダー・ギムナジウムで物理を教えた。 1847年、最初の論文を発表し、1848年には[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ハレ大学]]から[[博士号]]を与えられた。この時期の論文内容は[[光学]]に関するもので、太陽の光が大気中で散乱する現象などについて研究している。 1850年、熱力学に関しての初の論文となる「熱の動力、およびそこから熱理論のために演繹しうる諸法則について」を発表した。 同年、ベルリン王立砲工学校の物理学教授、およびベルリン大学私講師となった<ref name="名前なし-1">室田(1988)p60</ref>。 1851年、[[ジョン・ティンダル]]と知り合い、生涯を通しての友人となった。ティンダルはクラウジウスの論文の英訳を行い、私生活においても、クラウジウスの最初の子供の名付け親になっている<ref>セグレ(1992)p310</ref>。 1854年には論文「力学的熱理論の第二基本定理の1つの改良型について」を発表。熱力学第二法則を確立させた<ref name="名前なし-1"/>。 1855年、クラウジウスは[[チューリヒ]]に招かれ、チューリヒ工科大学の教授となった。1857年からはチューリヒ大学教授も兼任した。また、1857年に結婚し、後に6人の子をもうけた。1865年にチューリヒ哲学会で発表した論文では、初めて「エントロピー」という単語を使用した。 1867年には[[ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルク|ヴュルツブルク大学]]教授になり、1869年には[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]の教授になった。この間1868年にロンドン[[王立協会]]の外国人会員に選出されている<ref>{{FRS |code = NA8171 |title = Clausius; Rudolph Julius Emmanuel (1822 - 1888) |accessdate = 2011-12-11 }}</ref>。 1870年、[[普仏戦争]]が起こり、ボン大学では学生が義勇団を結成した。クラウジウスはその指導者となったが、訓練中に膝を怪我して、その傷はその後も永く残った。さらに1875年には妻アーデルハイトが6番目の子供を出産中に亡くなった。そのため、クラウジウスは子供を育て上げながら研究を続けることとなった。 1879年、クラウジウスの業績に対しロンドン[[王立協会]]より[[コプリ・メダル]]が授与された。 1884年から1885年まで、クラウジウスはボン大学の学長を務めた。1886年には再婚し、一子をもうけたが、1888年に貧血症にかかり、同年に亡くなった。 == 熱力学とクラウジウス == クラウジウスの業績の中で最も有名なものが熱力学への貢献である。 1824年、[[ニコラ・レオナール・サディ・カルノー|カルノー]]は、熱量は保存され、熱が高温から低温へと移動するときに仕事が発生するという理論を組み立てた。この理論は1840年代後半、[[ウィリアム・トムソン]]によって世に広まった。一方、同じ頃に、熱そのものが仕事に変化し、また仕事も熱に変化するという[[ジェームズ・プレスコット・ジュール|ジュール]]の測定結果が、おなじくトムソンなどによって世に認められるようになった。しかし、この2つの理論は互いに矛盾するように思われた。そのため、トムソンは初め、ジュールの測定結果のうち、「仕事が熱に変化する」という箇所については否定的な見解を示していた。 これに対しクラウジウスはジュールの理論を受け入れ、熱と仕事は互いに変換可能だと考えた。しかし、カルノーの理論を完全に捨て去ることもしなかった。ここから、熱に関する2つの原理が生み出される。 === 熱力学第一法則(エネルギー保存則) === 1つ目の法則は、ジュールや[[ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー|マイヤー]]、[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ|ヘルムホルツ]]らによって発見されていた[[エネルギー保存則]]である。クラウジウスは次のように表現した。 '''「熱の作用によって仕事が生み出されるすべての場合に、その仕事に比例した量の熱が消費され、逆に、同量の仕事の消費においては同量の熱が生成される。」''' クラウジウスは1850年の論文で、[[カルノーサイクル]]での熱の出入りを計算し、熱量Qに対して、 {{Indent|<math>\frac{d}{dt}(\frac{dQ}{dv})-\frac{d}{dv}(\frac{dQ}{dt}) = \frac{AR}{v}</math>}} が成り立つことを示した。ここで、tは温度、vは体積、Aは[[熱の仕事当量]]の逆数、Rは[[気体定数]]である。 熱量が常に保存されるのであれば、熱量はその物質の温度と体積のみで決まることになる。そのため、上の式の左辺はゼロにならなければならない(なぜなら、この式の左辺は、熱量を温度と体積で全微分した値であるから)。しかし実際にはゼロにはなっていない。そのため、熱は、その物質が持っているエネルギーのほかに、外部になされる仕事の分も加えなければならないことになる。 こうして、クラウジウスは次の式を作り上げた。 {{Indent|<math>dQ = dU + AR\frac{a+t}{v}dv</math>}} ここで、Uは[[内部エネルギー]](当時は内部エネルギーという単語は無かったが<ref>クロッパー(2009)p189</ref>)、aは定数である<ref>この式の導出方法については小野他編(1990)の八木の論文(pp.78-79)などを参照すること。ただし、トゥルスデルや山本は、この導出方法は不明瞭で説得力に乏しいと評している(山本(2009)p36)。</ref>。この式からクラウジウスは、熱(左辺)は、内部的になされる仕事(右辺第一項)と、外部になされる仕事(右辺第二項)に分けられると結論した。これはエネルギー保存則の初の定式化であった。 1865年の論文では、 {{Indent|<math>dU = dQ - dw</math>}} と、現在良く見られるような形の式を導出した。 === 熱力学第二法則 === [[File:Clausius falso.png|180px|right|thumb|上が高温源で下が低温源。右の円がカルノーサイクルで、高温から低温へと熱が移動するときに仕事Wが発生する。左の矢印のように、外から仕事を与えずに低温から高温へと熱が移動することはありえない。]] 熱力学第一法則を採用したことで、カルノーの理論は修正を迫られることになる。しかし、カルノーの理論を無視することはできない。「というのも、カルノーの理論はかなりの部分経験的にみごとに立証されているからである。注意深く吟味するならば、新しい方法はカルノーの原理の本質的部分とは対立することはなく、ただ'''熱の消失はない'''という補足的な主張に対してのみ相容れないのであるということが分かる<ref>Clausius "Ueber die bewegende Kraft der Wa:rme und die Gesetze, welch sich daraus fu:r die Wa:rmelehre selbst ableiten lassen" 山本(2009)p25より引用。強調は原文のまま。</ref> 。」 そのため、クラウジウスは熱力学第一法則に加えて、以下のことを熱力学の基本原理とした。 '''「熱は常に温度差をなくする傾向を示し、したがって常に高温物体から低温物体へと移動する。」''' クラウジウスはこれを「熱力学第二法則」(熱の特殊性の原理)と呼んだ。 1854年の論文では、仕事から熱量Qが発生した場合について、 {{Indent|<math>\frac{Q}{T}</math>}} という値を考えた。そしてこれは、高温<math>T_1</math>から低温<math>T_2</math>へと熱量Qが移動した場合の {{Indent|<math>Q(\frac{1}{T_2}-\frac{1}{T_1})</math>}} と等価値(Aequivalerzwerth)であると考えた<ref>実際のクラウジウスの論文では、Tは元々温度ではなくf(t)=1/Tで定義される「温度関数」として計算しており、論文の最後でTは結局のところ絶対温度と考えて良いと述べている。f(T)については、小野他編(1990)pp.80-84にある八木の論文、および山本(2009)pp.151-170に詳しい。なお山本は、[[エルンスト・マッハ|マッハ]]の「クラウジウスは何かを人に伝えようとしているのか、何かを覆い隠そうとしているのか、判然としない場合が多い」という文を引き、「とりわけこの54年論文は分かりにくい」としている。</ref>。 カルノーサイクルのような過程においては、この値を全て足し合わせるとゼロになる。すなわち、 {{Indent|<math>\int \frac{dQ}{T} = 0</math>}} となる。こうして、熱力学第二法則は定式化された。 1865年の論文では、不可逆過程も考慮に入れ、 {{Indent|<math>\int \frac{dQ}{T} \leq 0</math>}} という式を作り上げた。これはクラウジウスの不等式と呼ばれている。 === エントロピー === クラウジウスは1865年の論文で、Sを {{Indent|<math>dS = \frac{dQ}{T}</math>}} と定義した。 クラウジウスは、カルノーサイクルの研究をする中で、このdQ/Tと言う量を積分すると、カルノーサイクルを1周した際、この積分の総和がゼロに成る事に気が付いた。そこで、クラウジウスは、このdQ/Tと言う量に注目したのであった。クラウジウスは、上式の様に、このdQ/TをdSと言う新しい量として表し、このdSを積分した量であるSを[[エントロピー]]と呼んだ。そして、この新しい量Sの変化dSが、熱現象の方向を決定する事に気が付いたのであった。 重要な事は、クラウジウスが、原子論に関心を持ちつつも、原子の実在を仮定しない段階で[[エントロピー]]と言う関数の存在に注目した事である。即ち、クラウジウスがこの[[エントロピー]]と言う関数に注目、発見した段階において、[[エントロピー]]は、原子の実在性を全く前提としておらず、啓蒙書などで良く使われる「デタラメさの尺度」と言った意味は全く無かった事を忘れてはならない。クラウジウスが[[カルノーサイクル]]の検討から発見した関数[[エントロピー]]は、この時点では、あくまでも、熱機関の可逆性の指標だったのである。 彼が発表したエントロピーに関する考えは、当時、多くの科学者より反論された。しかし、[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]によって強く支持され、更に、[[ボルツマン]]によって、原子の空間中での分布の仕方を表す量、即ち、「デタラメさの尺度」である事が証明されたのであった([[ボルツマン]]の項を参照の事) クラウジウスは、熱力学第一・第二法則を以下の表現で表した。 #宇宙のエネルギーは一定である #宇宙のエントロピーは最大値に向かう === クラウジウス-クラペイロンの式 === クラウジウスは1850年の論文で、[[エミール・クラペイロン]]が導いた式と[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ]]の理論を組み合わせて、[[クラウジウス-クラペイロンの式]]と呼ばれる式を導き出した<ref>山本(2009)p67</ref>。この式は現在、ある温度での飽和蒸気圧を求めるときなどで使われている。 == 熱力学以外の業績 == 気体運動論の分野では、気体分子は並進運動に加え、回転運動と振動運動をするという内部自由度の概念を導入(1857年)し、空気中の[[酸素]]が二原子分子であることを示した。また、気体の内部エネルギーの研究から、気体分子の[[平均自由行程]]の概念を導入し(1858年)、気体の[[比熱]]、拡散などに関する理論的な基礎を構築した。 また、[[電解質]]の解離の概念を提出(1857年)。電流によって水溶液中の物質の解離が引き起こされるとした。この概念をもとに、[[スヴァンテ・アレニウス]]は[[電気分解]]論を確立した。更に、1870年には[[ビリアル定理]]のビリアルを導入している。 == クラウジウスとエネルギー問題 == クラウジウスは1885年に講演を行い、その内容を論文『自然界のエネルギー貯蔵とそれを人類の利益のために利用すること』<ref>原題『Ueber die Energievorräthe der Natur und ihre Verwendung zum Nutzen der Menschheit』、小野周他編(1990)pp.96-111に河宮信郎による和訳と解説あり</ref>にまとめた。この論文では、[[蒸気機関]]が発明されて以降の人類のエネルギー利用の歴史に触れた後で、論文執筆当時の主なエネルギー資源であった[[石炭]]はいずれ枯渇すると述べている。そして、将来的には滝の落下による[[水力発電]]など、太陽によって得られる[[自然エネルギー]]に移行しなければならないと結論している。この論文はクラウジウスのエネルギー問題に対する先見性を示すものとして[[科学史]]の分野でしばしば取り上げられている<ref>室田(1988)pp.63-64</ref><ref>山本(2009)p207</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author=ウィリアム・H・クロッパー |year=2009 |title=物理学天才列伝 上 |others=水谷淳訳 |publisher=講談社ブルーバックス |isbn=978-4062576635 }} *{{Cite book|和書 |others=小野周・槌田敦・室田武・八木江里編 |year=1990 |title=熱学第二法則の展開 |publisher=朝倉書店 |isbn=4-254-13047-3 }} *{{Cite book|和書 |author=[[エミリオ・セグレ]] |year=1992 |title=古典物理学を創った人々 |others=久保亮五、矢崎裕二訳 |publisher=みすず書房 |isbn=4-622-04088-3 }} *{{Cite book|和書 |author=[[山本義隆]] |year=2009 |title=熱学思想の史的展開3 |publisher=ちくま学芸文庫 |isbn=978-4480091833 }} *{{Cite journal| |author=室田武 |year=1988 |volume=5 |title=クラウジウスの生涯とエネルギー問題 |journal=エントロピー読本 |pages=pp. 57-65 }} {{Commonscat|Rudolf Clausius}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くらうしうす るとるふ}} [[Category:19世紀ドイツの物理学者]] [[Category:ドイツの理論物理学者]] [[Category:流体力学者]] [[Category:コプリ・メダル受賞者]] [[Category:王立協会外国人会員]] [[Category:オランダ王立芸術科学アカデミー会員]] [[Category:国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員]] [[Category:プロイセン科学アカデミー会員]] [[Category:ゲッティンゲン科学アカデミー会員]] [[Category:バイエルン科学アカデミー会員]] [[Category:ベルギー王立アカデミー会員]] [[Category:アッカデーミア・デイ・リンチェイ会員]] [[Category:プール・ル・メリット勲章平和章受章者]] [[Category:ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボンの教員]] [[Category:ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルクの教員]] [[Category:チューリッヒ工科大学出身の人物]] [[Category:ドイツの旧領土出身の人物]] [[Category:1822年生]] [[Category:1888年没]] [[Category:ポンスレ賞の受賞者]]
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