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山本卯太郎
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[[File:Yamamoto Utaro.jpg|thumb|山本卯太郎]] {{Infobox 人物 |氏名=山本 卯太郎 |画像= |画像サイズ=200px |画像説明=山本 卯太郎 |生年月日=[[1891年]]([[明治]]24年)[[6月15日]] |生誕地= |没年月日=[[1934年]](昭和9年)[[4月20日]]<br >(満{{没年齢|1891|6|15|1934|4|20}}) |死没地= |職業=橋梁技術者 |出身校=[[名古屋高等工業学校]]<br >(現[[名古屋工業大学]]) |配偶者= |子供= }} '''山本 卯太郎'''(やまもと うたろう、[[1891年]](明治24年)[[6月15日]] - [[1934年]](昭和9年)[[4月20日]])は、[[大正]]末期から[[昭和]]初期の[[橋梁]]技術者<ref>「近代化産業遺産群 続33」(経済産業省)が[[2009年]](平成21年)[[2月6日]]に選定された。その発表資料の「近代化産業遺産群 続33 ~近代化産業遺産が紡ぎ出す先人達の物語~」においても、山本卯太郎についての記述がある。</ref>。複雑な構造をもつ[[可動橋]]を得意とし、多数の跳上橋を設計。[[数学]]の手法を用いて、可動橋の動的なメカニズムを[[解析]]。新技術を開発し、独自の発展を遂げた可動橋分野を牽引した人物。 == 来歴 == 名古屋高等工業学校を卒業後、[[アメリカ合衆国|米国]]に渡航し、4年間橋梁を研究。[[1919年]](大正8年)、山本工務所を興す。[[1927年]](昭和2年)2月に竣工した[[名古屋港跳上橋]]([[登録有形文化財]]、[[1999年]]([[平成]]11年)[[2月17日]]登録<ref>[http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=83074 名古屋港跳上橋]</ref>)、[[1931年]](昭和6年)12月に竣工した[[末広橋梁]]([[重要文化財]]、[[1998年]](平成10年)[[12月25日]]指定<ref>[http://www.bunka.go.jp/1hogo/main.asp%7B0fl=show&id=1000007578&clc=1000011213&cmc=1000007006&cli=1000007317&cmi=1000007404%7B9.html 重要文化財指定(建造物) <平成10年10月>]</ref>)を設計。 名古屋高等工業学校で教鞭をとり、後進の育成にも努める。[[1931年]](昭和6年)に体調を崩したが、回復<ref>駆けつけた家族の手厚い看病もあり回復。入院加療後、温泉で静養。</ref><ref>「工事タイムス 山本卯太郎氏」『土木建築工事画報』第7巻第10号、工事画報社、[[1931年]](昭和6年)10月。</ref>。[[1932年]](昭和7年)頃から、おもに近畿方面や日本国外<ref name="釜山郊外洛東の新可動橋">「工事タイムス 釜山郊外洛東の新可動橋」『土木建築工事画報』第7巻第5号、工事画報社、[[1931年]](昭和6年)5月。</ref>での設計・製作に携わるが、出張先<ref>山口県方面</ref>で倒れ、[[1934年]](昭和9年)4月20日に急逝。 == 設計橋梁(国内) == *[[1926年]](大正15年) [[隅田川駅跳上橋]]<ref>別称: 隅田川油槽所跳上橋</ref>(東京都[[荒川区]]) [[カウンターウエイト]]: 約75 トン(可動部重量: 約40 トン<ref>カウンターウエイトを支える鉄骨アーム(腕の鉄骨部分)などを含む。</ref>) *[[1926年]](大正15年) [[正安橋]]<ref>別称: 島屋運河跳上橋</ref>(大阪市[[此花区]]) *[[1927年]](昭和2年) 名古屋港跳上橋<ref>別称: 1・2号地間運河可動橋、堀川可動橋</ref>(名古屋市[[港区 (名古屋市) |港区]]) *[[1928年]](昭和3年) [[栄橋 (坂出市)|栄橋]](香川県[[坂出市]]) *[[1929年]](昭和4年) [[古川可動橋]]<ref>別称: 芝浦跳開橋</ref>(東京都[[港区 (東京都)|港区]]) *[[1930年]](昭和5年) [[福島新橋]]<ref name="徳島市に架せられた最新式跳上橋">「徳島市に架せられた最新式跳上橋」『土木建築工事画報』第6巻第5号、工事画報社、[[1930年]](昭和5年)5月。</ref>(徳島県[[徳島市]]) *[[1931年]](昭和6年) 末広橋梁<ref>別称: 四日市港の鉄道用鋼索型跳上橋、四日市港駅鉄道橋</ref>(三重県[[四日市市]]) カウンターウエイト: 約24 トン(可動部重量: 約48 トン) :隅田川駅跳上橋・正安橋は、ほぼ同時期に竣工し、日本初の跳上橋<ref name="跳上橋">鋼橋</ref>である。 :名古屋港跳上橋は、日本で現存する最古の跳上橋<ref name="跳上橋"/>である。 :末広橋梁は、可動橋として初の重要文化財指定<ref>指定基準: 技術的に優秀なもの、歴史的価値の高いもの</ref>。 == 新技術の開発 == === 内容 === *昇降用動力の大幅な軽減などを実現する新システムの考案 === 論説報告について === 山本卯太郎は、[[1928年]](昭和3年)12月発行の『土木学会誌』に論説報告<ref name="論説報告">山本卯太郎 「鋼索型跳上橋の一考案」『土木学会誌』第14巻第6号、[[土木学会]]、[[1928年]](昭和3年)12月。</ref>を発表した。 *次のことを実現できるリンク・バランス・システム<ref>リンク平衡装置</ref>を考案して実用化する。 **従来の跳上橋と比べ <math>\frac{1}{4}</math> 程度<ref>比較する跳上橋によっては1/5程度</ref>の動力で昇降可能<ref>海外形式のおもな跳上橋と比較した場合</ref> **終始一定な動力<ref>近似的に一定</ref>など *昇降時の動的なメカニズムを解析。論理的帰結に基づいて解析した特種曲線<ref name="包絡線"/>を単純化することにより、新システム採用の跳上橋における細かな設計値算出を可能にする。 **研究の経緯など **非線形[[偏微分方程式]]などを立てて解析 **栄橋の設計値に応用<ref>数値解析の手法を用いる。特種曲線を与える方程式から座標値を算出。その座標値と作図によって求めた特種曲線(図式)とのデータ照合を行う。</ref> **架設概況(動力、経済性、施工の様子、設計図面など) ここでいう鋼索とは、可動部橋桁とカウンターウエイトを単に連結するための鋼索(ケーブル)という意味ではない。従来の跳上橋も、可動部橋桁とカウンターウエイトを鉄骨アームやケーブルで連結するなど<ref>ウエイトの調整などで工夫。鉄骨アーム、ケーブルの他に、ポンプなどもある。</ref>により、「動力の軽減など」を図っていた。 <br >これに対して、山本卯太郎は、特種曲線を用いるなど、数学的な解析に力点をおいている。すなわち、可動部橋桁での作用点<ref>昇降時の「可動部橋桁の傾き」によって、作用点を変化させる。</ref>が、'''特種曲線に沿って動く'''ようにするため、可動部橋桁とカウンターウエイト間で、'''鋼索を利用して離散的な点'''<ref>連続した点ではないので、作用点は近似的に特種曲線上にある。</ref>'''を順次に連結'''できるようにし、この新たな考案の目的である「動力の大幅な軽減など」を実現したのである。 === 新システム採用の橋梁 === *この跳上橋のことを鋼索型跳上橋といい、栄橋(道路橋)・福島新橋(道路橋)・末広橋梁(鉄道橋)が該当する。 *新システム採用の末広橋梁において、可動部重量に対するカウンターウエイトの割合は約 <math>\frac{24}{48}</math> である。一方、隅田川駅跳上橋の場合、カウンターウエイトを支える鉄骨アームの重量を仮に無視<ref>カウンターウエイトを支える鉄骨アームの重量を 1 トンと仮定してみると、 40 から 1 を引いて、可動部重量は 39 トンとして計算することになる。この場合、可動部重量に対するカウンターウエイトの割合は約 75/39 となる。</ref>しても、同様の割合は約 <math>\frac{75}{40}</math> となる。 ::ここで、共に山本卯太郎の設計橋梁であるが、(同じ可動部重量に対する)カウンターウエイトを比較してみると ::<math>{24 \over 48} \div {75 \over 40} = {24 \over 48} \times {40 \over 75} = 0.2\dot{6}</math> ( なお、 <math>\frac{1}{4}= 0.25</math> である。 ) であるから ::<math>\frac{1}{4}</math> までにはなっていないが、 <math>\frac{1}{4}</math> 程度に軽減されている。 ::末広橋梁は、隅田川駅跳上橋の <math>\frac{1}{4}</math> 程度のカウンターウエイトで機能を果たせることになる<ref>「同じ可動部重量など」と仮定した場合</ref>。 *福島新橋についての文献<ref name="徳島市に架せられた最新式跳上橋"/>にも、次のような技術的な記載がある<ref>本文献には、諸元なども記されている。</ref><ref>「國」を「国」にするなど、新字体などに直す。</ref>。 {{quotation| :四国には此で二つ<ref>[[1930年]](昭和5年)竣工の福島新橋は、[[1928年]](昭和3年)竣工の栄橋に次いで2つ目となる。</ref>の跳上橋が出来たわけだが何れも山本卯太郎氏の特許になるもので、今度の徳島市土木課が架設した福島新橋は可動橋中最も工費の低廉な、然も安全第一<ref>本文献に、「昇降共に自動的に停止する」と記されている。</ref>の有効なものであると言はれてゐる。 :…(中略)… :本可動橋は左右に配置された二個の主桁上部に特種連幹各三個を配し、此を主桁に桿着し、他の端に針金撚り線の一端に定着せしめ、各連幹は三個共特種抱絡線<ref name="包絡線">「包絡線(Envelope)」(山本卯太郎の論説報告から)</ref>を算定して此に接線に設置された物で、可動桁がどんなに仰角に置かれても、常に反動錘を(橋桁橋桁の一端にある回転軸の周囲に於て)と平衡を保つ装置であるから、昇降用の動力はすべて一定不変である。且つ他の可動橋に比し、橋桁の回転軸と橋台の運転用鋼索との垂直距離は他橋のフツクの半径に比し、約五倍以上あるから約五分一の馬力で、終始一定の動力で運転し得る点は最も合理的であり、また最も経済的に出来てゐる。 :…(中略)… :本橋は山本式鋼索型自動平衡跳上橋と称し又リンク、バランス、バスキュールとも言ひ発明者はすでに日、英、米、独の特許を得てゐる。 :要するに本橋の特色は同径間の他の可動橋に比し :安全迅速に運転の出来る事と :水上の交通物を容易に通過せしむる事と :運転馬力の僅少なる事等である。 }} *山本式跳上橋<ref name="論説報告"/>、山本式鋼索型自動平衡跳上橋、リンク・バランス・バスキユールは、鋼索型跳上橋の別称である。 == 新技術の開発(続)== === 内容 === *自動連動装置と制限歯車による動力制御の考案 === 参考文献 === *[[1931年]](昭和6年)5月発行の『土木建築工事画報』に、次のような記事<ref name="釜山郊外洛東の新可動橋"/>が掲載されている<ref>「總」を「総」にするなど、新字体などに直す。</ref>。 {{quotation| :可動橋梁界のエキスパート山本卯太郎氏の設計になる釜山郊外洛東江の新橋は総工費実に360萬円と云ふ東洋一の可動橋…(以下略)… }} *「[{{新聞記事文庫|url|0100159381|title=満洲国の交通網完備に本邦製可動橋輸出 : 益増加の一途を辿らん 大小業者目下待機中|oldmeta=00105057}} 満洲国の交通網完備に本邦製可動橋輸出 : 益増加の一途を辿らん 大小業者目下待機中]」 自動可動橋を完成の山本工務店では語る 『大阪時事新報』[[1933年]](昭和8年)3月23日。提供: 神戸大学附属図書館 == 参考 == *エピソードなどは次の通り。 **実直な性格。体面を重んじ、常にきちんとした服装で外出した。何事にも気概を持って臨んだ。思い立つとすぐ実行しなければ気が済まなかった。 **[[1929年]](昭和4年)4月、自分の考案<ref name="論説報告"/>に対して、内容を理解せず、誹謗中傷を行っている者がいることを知らされ、憤慨。同年[[1929年]](昭和4年)の5月、山本工務所の本社機能を、本宅の東京[[芝公園]]から大阪の[[此花区]]春日出町に移した。古川可動橋を最後に、東京には可動橋を架設することはなかった。一応、東京[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]にも連絡所(営業所)を置くが、他の地域での仕事に忙しい日々を送った。名古屋には、[[南区 (名古屋市)|南区]]西築港北倉町に営業所があった。 **普段は家族・使用人・書生にやさしく接していた。本宅に帰宅した卯太郎は、居間に置いてあった大福餅を一つ食べ終わると、大福餅を一つつかんで玄関まで行き、それを玄関のたたきに投げつけた。多数の使用人たちを前に、「この大福餅が食べられるようにきれいにしなければならない。」と大声で叱責。玄関の黒御影石には、少し泥が付いていた。また、庭で[[青焼|青焼き]]を乾かし、設計図面を見ながら、書生たちと楽しく歓談することも多かった。好物の[[稲荷寿司]]を施工現場での昼食によく持参し、作業の人々に分けた。 **卯太郎のことを心配している幼い我が子に、「おとうさまは、お隣や満州に世界一の可動橋という橋をつくりに行っているのです。心配してはいけません。心配すると、逆におとうさまが心配されますよ。」と、母親が諭した。朝から、繰り返し母親や使用人に尋ねていたが、ぴったり言わなくなった。しかし、涙を浮かべていた。「いまに、みんなを連れて行ってくださるので、世界一の橋を見ることが出来ますよ。」と付け加えた。 *[[1934年]](昭和9年)5月発行の『土木建築工事画報』に掲載された追悼文<ref>「工事タイムス 山本卯太郎氏」『土木建築工事画報』第10巻第5号、工事画報社、[[1934年]](昭和9年)5月。</ref>の一節に次のようなことが記されている<ref>「學」を「学」にするなど、新字体などに直す。</ref>。 {{quotation| :氏は異常な活動家であつたゞだけに、保守的なわが土木工学界では随分反対者もあつたらしいが、何れにもせよ氏が我国に於ける可動橋の発達に尽くされた偉大なる功績は誰しも認める処で、かけ替のない人を失つたと云ふ哀しみがひしひしと迫るのを覚える。 }} == 脚注 == {{reflist}} {{DEFAULTSORT:やまもと うたろう}} [[Category:日本の土木技術者]] [[Category:日本の発明家]] [[Category:名古屋工業大学出身の人物]] [[Category:1891年生]] [[Category:1934年没]]
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