弘前大教授夫人殺し事件のソースを表示

{{Redirect|弘前事件|2001年発生の強盗殺人・放火事件|武富士弘前支店強盗殺人・放火事件}}
{{Infobox 事件・事故
|名称=弘前大教授夫人殺し事件
|正式名称=
|画像=
|脚注=
|場所={{JPN}}・[[青森県]][[弘前市]][[在府町]]
|日付=[[1949年]]（[[昭和]]24年）[[8月6日]]
|時間=23時過ぎ
|時間帯=[[UTC+9]]
|概要=[[弘前医科大学]]教授[[松永藤雄]]の妻が在府町の寄宿先で刺殺された殺人事件、および無実の男性が逮捕・起訴されて有罪に処された冤罪事件。
|原因=
|手段=頸部への刺突
|攻撃側人数=1人
|武器=グラインダーで尖らせたヤスリ
|死亡=1人
|被害者=那須隆（冤罪被害者）
|犯人=[[#真犯人X]]
|動機=被害者の身体に触りたかった（Xの主張）
|謝罪=Xは再審開始前に那須に謝罪したが、判決後には那須を詰る発言をした。警察・検察・裁判所からの謝罪は一切なかった。
|補償=再審無罪判決後の那須に刑事補償として1399万6800円（すべて亡父の墓代・再審費用・国賠訴訟費用に消費）。
|民事訴訟=那須が再審判決後に国賠訴訟を提起するも全面敗訴（[[#国家賠償請求訴訟]]）。
|刑事訴訟=那須に懲役15年の誤判（10年間の服役を経て、出所後に再審で無罪が確定）。真犯人Xは公訴時効が成立したため処罰されず。
|影響=法医学的には血痕のみを証拠として有罪判決に辿り着いたモデルケースとなった一方、無実の罪で投獄された那須とその家族は経済的・精神的に大きな負担・苦痛を受けた（[[#判決の影響]]）。
|管轄=[[弘前市警察]]
}}
'''弘前大教授夫人殺し事件'''（ひろさきだいきょうじゅふじんごろしじけん）は、[[1949年]]（[[昭和]]24年）[[8月6日]]深夜、[[青森県]][[弘前市]]で発生した[[殺人罪 (日本)|殺人]]事件と、それに伴った[[冤罪]]事件である。略称は'''弘前事件'''。殺人[[被害者]]の名を取って'''松永事件'''とも呼ばれる<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 38頁</ref>。

==概要==
{| class="wikitable floatright" style="font-size:90%; margin-left:3em;"
|+ 経過
! 年 !! 月日 !! 事柄
|-
| 1949年 || {{0}}8月{{0}}6日 || '''事件発生'''。
|-
| || {{0}}8月22日 || 那須隆、逮捕される。
|-
| || 10月24日 || 那須、起訴される。
|-
| || 11月{{0}}1日 || 青森地裁弘前支部で一審公判開始。
|-
| 1951年 || {{0}}1月12日 || 一審終了。那須は'''無罪'''となる。
|-
| || {{0}}6月19日 || 仙台高裁で控訴審開始。
|-
| 1952年 || {{0}}5月31日 || 控訴審終了。那須に'''懲役15年'''の有罪判決。
|-
| 1953年 || {{0}}2月19日 || 最高裁が上告を棄却。那須の有罪が確定。
|-
| style="background-color:#dfd" colspan="3" |
|-
| 1963年 || {{0}}1月18日 || 那須、仮釈放される。
|-
| style="background-color:#dfd" colspan="3" |
|-
| 1971年 || {{0}}5月28日 || '''真犯人が出現'''。
|-
| || {{0}}7月13日 || 那須、仙台高裁へ再審請求。
|-
| 1974年 || 12月13日 || 高裁刑事第一部、請求を棄却。
|-
| 1976年 || {{0}}7月13日 || 高裁刑事第二部、棄却決定を取消し再審開始を決定。
|-
| || {{0}}9月28日 || 再審開始。
|-
| 1977年 || {{0}}2月15日 || 再審終了。那須は'''無罪'''となる。
|-
| style="background-color:#dfd" colspan="3" |
|-
| || 10月22日 || 那須、国家賠償を請求。
|-
| 1981年 || {{0}}4月27日 || 青森地裁弘前支部で一審終了。那須が'''部分勝訴'''。
|-
| 1986年 || 11月28日 || 仙台高裁で控訴審終了。那須が'''全面敗訴'''。
|-
| 1990年 || {{0}}7月20日 || 最高裁が上告を棄却。
|-
| style="background-color:#dfd" colspan="3" |
|-
| 2008年 || {{0}}1月24日 ||那須隆、死去。
|}

1949年8月6日深夜、[[弘前医科大学]][[教授]][[松永藤雄]]の妻が[[在府町]]の寄宿先で刺殺された。[[弘前市警察]]は近隣住民の無職の男性、那須隆を[[逮捕 (日本法)|逮捕]]し、[[勾留]]延長や[[別件逮捕]]などを利用して厳しく追及した。那須は一貫して[[無実]]を主張したが[[アリバイ]]はなく、事件の目撃者からも犯人であると断定され、[[精神鑑定]]でも那須は[[変態性欲|変態性欲者]]であるとの結果が出された。加えて那須の衣服に対する[[血痕鑑定]]でも血液の付着があるとの結果が出されたため、同年10月に那須は[[青森地方裁判所]]弘前支部へ[[起訴]]された。

[[一審]]では[[血液学]]の権威である[[東京大学医学部]][[法医学]]教室教授[[古畑種基]]も数学を援用して那須の衣服の鑑定を行い、それには被害者のものと完全に一致する血液が付着していると結論した。これに対し那須の[[弁護人]]らは、実施された鑑定には不自然な点があるとして、物証は捏造されたものであると主張した。[[1951年]]（昭和26年）に下った一審[[判決 (日本法)#刑事訴訟における判決|判決]]では那須は[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]について[[無罪]]とされたが、[[裁判長]]はその理由を一切説明しなかった。[[仙台高等裁判所]]で開かれた[[控訴審]]では那須が変態性欲者ではないとする精神鑑定の結果も出されたが、[[1952年]]（昭和27年）の控訴審判決は古畑の鑑定を始めとしてほぼ全面的に[[検察]]側の主張を容れ、那須は[[懲役]]15年の有罪判決を受けた。やがて判決が[[確定判決|確定]]した那須は10年間服役し、この事件は法医学の力が有罪判決に寄与したモデルケースとして知られるようになった。

しかし、事件から20年以上が経過した[[1971年]]（昭和46年）になって、事件当時は弘前在住で那須の知人であった男が、自らが事件の真犯人であると名乗り出た。那須は[[日本弁護士連合会]]や[[読売新聞]]などの協力を得て[[再審]]を請求し、その後行われた物証の再鑑定でも、過去の血痕鑑定には多くの批判が加えられた。[[1974年]]（昭和49年）に請求は一度[[棄却]]されたが、翌年に下された[[白鳥決定]]により再審の門戸が拡げられたことにより間もなく再審の開始が決定された。そして事件から28年が経過した[[1977年]]（昭和52年）、仙台高裁は物証の捏造を強く示唆して那須に対する殺人の罪を撤回し、事件は冤罪と認められた。だが、その後の[[国家賠償]]請求訴訟では国側の[[過失責任]]は否定され、那須の全面[[敗訴]]となった。{{-}}

== 背景 ==
[[File:Nasu Takashi.JPG|180px|thumb|那須隆]]
[[1945年]]（[[昭和]]20年）、[[第二次世界大戦]]での敗北によって[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]が[[日本]]に進駐し、[[連合国軍占領下の日本#政策|占領政策]]の一環として[[学制改革]]が開始された。これを受けて、[[1948年]]（昭和23年）2月に青森県弘前市に設置されたばかりの[[旧制大学|旧制]][[弘前医科大学]]も、併存していた前身校の青森医学専門学校（青森医専）とともに、[[国立学校設置法]]によって[[1949年]]（昭和24年）5月に[[新制大学|新制]][[弘前大学]]の[[医学部]]へと再編された<ref>[[#三十年史|弘前大学医学部三十年史編集委員会 (1976)]] 54頁</ref>。しかし、実際に弘大医学部が開設されたのは翌々年の[[1951年]]（昭和26年）4月のことであり<ref name="弘大">[[#三十年史|弘前大学医学部三十年史編集委員会 (1976)]] 59-60頁</ref>、弘前大教授夫人殺し事件はこの大学再編の過渡期に発生した事件である。

当時の弘前医大で[[学長]]を務めていたのは東北帝国大学（後の[[東北大学]]）元[[教授]]の[[精神科医]]、'''[[丸井清泰]]'''であり、学内では東北大学系の[[学閥]]が力を持っていた<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 37頁</ref>。同時期に東北大学から赴任してきたばかりの'''[[松永藤雄]]'''もまた、丸井の片腕として大きな政治力を持ち、同大学教授と[[弘前大学医学部附属病院|大学附属病院]][[内科]]部長も務めていた<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 11頁、37頁</ref>。松永は[[1947年]]（昭和22年）から弘前市[[在府町]]で、妻'''S'''（事件当時30歳）と2人の子供たちとともに住むようになった<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 7頁、13頁、54頁</ref>。一家が身を寄せたのは松永が東北大学に勤務していた頃の患者宅の離れで、その付近には古くからの[[武家屋敷]]が立ち並んでいた<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 11頁、13頁</ref>。

その屋敷町の、松永一家の寄宿先から200[[メートル]]足らずの距離に屋敷を構えていたのが、[[下野国]]を治めていた[[戦国大名]]の[[那須氏]]直系の家であった<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 11頁、20-21頁</ref>。統一那須家から数えて15代目の時代に[[東京]]の屋敷を台風で失い、かねてから[[養子縁組]]などで縁の深かった[[津軽家]]を頼って弘前へ移り住んだ那須家であったが<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 20-21頁</ref>、[[農地改革]]で[[小作地]]を奪われた当時の那須家は没落状態にあった<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 47頁</ref>。この家庭に12人きょうだいの次男（長男は夭逝したので実質的な長兄）として生まれたのが当時25歳の'''那須隆'''（なす たかし）である<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 31頁</ref>。[[1943年]]（昭和18年）に[[東奥義塾高等学校|東奥義塾]]を卒業し、かつては[[満州国]][[興安総省]]の[[満蒙開拓団|開拓団]]指導員や青森県通信警察官{{Efn|[[巡査]]としての身分で[[警察電話]]の架線や保守を行うという、青森県が独自に設定した職域<ref name="鎌田46">[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 46頁</ref>。[[1946年]]（昭和21年）3月に廃止された<ref name="鎌田46"/>。}}としても働いていた那須であったが、通信警察が廃止されてからは定職に就けず、失業者として暮らしていた<ref name="井上22">[[#井上11|井上 (2011)]] 22-23頁</ref>。しかし、那須は長兄として家族を養うために[[日本の警察官|警察官]]に戻ることを考えていた<ref name="井上22"/>。

== 事件と捜査 ==
[[File:The vinctim's room of Hirosaki incident.JPG|thumb|280px|弘前市警による[[実況見分]]の調書添付図（8月7日付）{{Efn|{{Anchors|実況見分}}この実況見分調書は事件から数時間後に作成されたことになっているにもかかわらず、その冒頭には「[[被疑者]]那須隆に対する殺人被疑事件につき」との文言がある<ref>[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 5-6頁</ref>。これについて事件の捜査課長であった弘前市警部は後に、実際に調書を作成したのは事件から2週間後のことであったと語っている<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 147-148頁</ref>。}}]]
1949年8月3日、松永は仕事のため一週間ほど家を離れる予定で、息子を連れて[[青森市]]へと発った<ref name="鎌田14">[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 14頁</ref>。4歳の娘と2人で家に残されることになったので、松永の妻Sは実家から母親を呼び寄せ、夫たちの留守の間を3人で過ごすことにした<ref name="鎌田14"/>。

8月6日22時頃、3人は離れ一階の8畳間で「川」の字になって床に就いた<ref name="後藤145">[[#後藤|後藤 (1979)]] 144-147頁</ref>。8畳間には2[[燭光]]の水色豆電球が点いており、3人は北側からSの母、Sの娘、Sの順に縁側へ面した南側へと横たわっていた<ref name="後藤145"/>。事件が発生したのは、それからおよそ1時間後のことである<ref name="後藤145"/>。
{{quotation|私は『ああ』という叫び声に目を醒して{{Interp|S|和文=1}}を見ると{{Interp|S|和文=1}}の横に蚊帳の中に這っている男を発見したのであります。其の男は年齢二十年過ぎで丈五[[尺]]三[[寸]]位白色半袖シャツに色はよく記憶ありませんが半ズボンをはいて髪はよくわかりませんが帽子をかぶっていない男がシャがんでいましたから私は吃驚して{{Interp|S|和文=1}}と一回叫んだのであります。<br />私は{{Interp|S|和文=1}}と叫ぶとその男は寝室の前の硝子戸から逃げて行ったので私は泥棒と叫んだのであります。其の男の逃げて行った硝子戸は約一尺位開いていたのでそこから逃げた様であります。<br />其の男は逃げ去ってから私は{{Interp|S|和文=1}}しっかりしろ{{Interp|S|和文=1}}どうしたと抱き起して見ると首のあたりから血がどくどく流れていたのであります。<br />{{Interp|中略|和文=1}}<br />唯娘の{{Interp|S|和文=1}}は私に抱かれながら私は死んでしまうと言って約五分位経て死んで行ったのであります。<br />{{Anchors|S母警察調書}}其の晩は寝る時二燭光の小さな電気を付けていたので娘を殺した犯人の顔は殆ど見ていなかったのでありますが服装だけは大体見たので先程申上げたのであります。|Sの母の[[司法警察員面前調書|員面調書]]（8月8日付）より<ref name="後藤145"/>}}

23時過ぎ、Sは南の縁側から侵入してきた男に家族の目の前で刺殺された<ref>[[#後藤|後藤 (1979)]] 149頁</ref>。致命傷は鋭利な刃物で左側[[総頸動脈]]に受けた傷であったが、姦淫された形跡はなかった<ref>[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 129-130頁</ref>。

当時の上流階級であり、なおかつ近隣でも評判の美女であった大学教授夫人の殺害事件に、地元の世論は沸き立った<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 34頁</ref>。所轄の[[自治体警察 (旧警察法)|自治体警察]]である弘前市警察は松永一家の交際状況や近隣の[[前科|前科者]]などを洗ったが、結果は思わしくなく、加えて医大側が非協力的であったために捜査は難航した<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 38頁、141-142頁</ref>。やがて弘前市警は[[国家地方警察青森県本部]]に協力を仰ぐことになったが、この2つの警察の間では縄張り争いからの反目が絶えなかった<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 140-143頁</ref>。事件から2週間後に市警が[[別件逮捕]]した有力な被疑者も、[[アリバイ]]の発覚により釈放を余儀なくされた<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 39-40頁</ref>。事件の[[迷宮入り]]を新聞が危惧するなか<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 26頁</ref>、市警の見立ては[[変態性欲|変態性欲者]]犯行説へと傾斜していった<ref>[[#後藤|後藤 (1979)]] 157頁</ref>。

=== 那須への疑惑 ===
[[File:Map of the Hirosaki incident 1.png|thumb|280px|A - 松永宅<br />B - 那須宅<br />紫線C - 警察犬のたどったルート<br />赤の斑点 - 血痕およびその類似物<br />（8月7日付実況見分調書から作成。建物などの縮尺は実寸と全く異なることに注意）]]
一方、近隣住民であった那須隆は、事件の報を聞くや翌朝には現場に駆けつけて聞き込みを行っていた<ref name="吉岡14">[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 14頁</ref>。のみならず、那須は犯人と思われる者を何人も警察へ通報し、自ら自転車で走り回っては不審人物を捜索し、自宅の周辺から[[血痕]]や凶器を発見しようと骨を折っていた<ref name="鎌田41">[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 41-43頁</ref>。手柄を立てれば警官への道が開けると考えての行動であったが<ref>[[#佐藤|佐藤 (1982)]] 110頁</ref>、役に立たない情報ばかり持ち込んでくる那須に対し、市警は逆に疑惑を抱くことになる<ref name="鎌田41"/>。

さらに、那須宅付近からは実際にSのものと同じB型の血痕らしきものが発見されており（ただし、那須の[[ABO式血液型]]もSと同じB型であり<ref>[[#木村82|木村 (1982)]] 142-143頁</ref>、那須宅付近の血痕と松永宅付近の血痕の間には道のりにして約200メートル、血液の検出されなかった区間がある）<ref>[[#福島、新屋|福島、新屋 (1999)]] 229頁</ref>、現場に残されていた足跡を事件翌朝に追った[[警察犬]]も、臭いを追って那須宅の数件手前の地点まで達していた（ただし、この警察犬は松永宅付近の血痕があった地点には全く反応していない）<ref>[[#後藤|後藤 (1979)]] 155-156頁</ref>。しかし、同年に行われた[[刑事訴訟法]]の抜本的改革によってさらに強力な[[証拠]]を必要としていた市警は、この段階でも那須の[[逮捕 (日本法)|逮捕]]を躊躇していた<ref name="吉岡14"/>。

そんな中、8月21日の夕方に那須は東奥義塾時代の後輩{{Efn|この後輩は後に[[指定暴力団]][[住吉会]]系[[住吉一家]]の下部団体、千葉東一家の最高幹部となった<ref name="鎌田48">[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 48頁</ref>。この[[博徒]]と付き合いがあったことも、那須が警察にマークされる一因となった<ref name="鎌田48"/>。}}の家を訪ね、夕食後に後輩宅を辞した<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 49-50頁</ref>。この際に後輩宅へ那須が預けていった'''[[リンネル]]製の白いズック靴'''が市警に[[領置]]され、そのズック靴は市内の内科・[[小児科]][[開業医]]である'''[[松木明]]'''のもとへ持ち込まれた<ref name="鎌田53">[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 53頁</ref>。市の[[公安委員]]にして著名な[[民俗学者]]、地元の名士である松木によってズック靴の[[血痕鑑定]]が行われ、およそ2時間後に松木は「ズック靴には人血が付着している」と結論付けた<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 161-162頁</ref>{{Efn|ただしこの白ズック靴が市警に渡った経緯については、那須の後輩が「自宅を不意に警官が訪ねてきたので靴を見せた」と後の[[裁判]]で[[証言]]しているのに対し、靴を領置した警官は「那須の後輩から通報があった」と後に語っており、矛盾がある<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 50-52頁、117-119頁</ref>。加えてズック靴が領置された日付自体についても、警官は21日夜、松木は22、3日と各々証言しており、食い違っている<ref name="福屋230">[[#福島、新屋|福島、新屋 (1999)]] 230-231頁</ref>。}}（[[#松木靴鑑定|下表参照]]）。このズック靴を物証として市警は翌22日夕方に那須に[[任意同行]]を求め、那須はその時作業着として着用していた'''[[大日本帝国海軍|海軍]]用開襟白シャツ'''を着替えながら、それに応じた<ref name="井上31">[[#井上11|井上 (2011)]] 31頁</ref>。

同日19時50分、那須は[[殺人罪 (日本)|殺人]]容疑で逮捕された<ref name="井上31"/><ref name="後藤159">[[#後藤|後藤 (1979)]] 159-160頁</ref>。同時に行われた[[家宅捜索]]で、那須が脱いだばかりの開襟白シャツが、実包のない骨董品の拳銃などとともに[[押収]]された<ref name="後藤159"/>。

==== アリバイと目撃証言 ====
市警は第一に那須のアリバイを追及した<ref name="井上31"/>。[[弁護士#日本の弁護士|弁護士]]への[[接見]]も一切許されず、殴る蹴る、トイレに行かせないといった[[拷問]]もあったという<ref>[[#弘前|弘前大学アムネスティ・クラブ、福島 (1992)]] 86頁</ref>。しかし那須が主張する事件当夜のアリバイは激しく転変し、そのいずれもが捜査によって打ち崩された<ref>[[#後藤|後藤 (1979)]] 160-162頁</ref>。また、家族も那須の確たるアリバイを挙げることができず<ref>[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 40-42頁</ref>、近親者である彼らの[[証言]]能力自体も疑問視された<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 33頁</ref>。9月11日には那須は「{{Anchors|氷}}事件当夜は自宅にいて、近隣住民が氷を削っている音を聞いた」と主張したが、市警の調べに対してその住民は那須の主張を否定した<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 74-75頁</ref>。

8月31日には、唯一の犯行目撃者であるSの母に対する那須の単独[[面通し]]（目撃者に比較対照させない形式の面通し）が[[青森地方検察庁|青森地検]]によって行われた<ref name="後藤173">[[#後藤|後藤 (1979)]] 173-174頁</ref>。
{{quotation|私が見た犯人とそっくりであります。右側から見た横顔の輪郭も全然同一であり頭髪が少しもつれて前に出ている格好も全く同じであり又後から見た後姿も全く同じで胴の細さ等全く真犯人と思われます。{{Interp|中略|和文=1}}私は余りに今日見せて貰った男と私が見た男と酷似しているのでこの男に娘があのようなひどい目に会ったかと思い遂気分が悪くなった位であります。|Sの母の[[検面調書]]（8月31日付）より<ref name="後藤173"/>}}
事件直後の警察に対する調書では「犯人の顔は殆ど見ていなかった」と証言していたにもかかわらず（[[#S母警察調書|上記参照]]）、Sの母は那須が犯人であると断言した。その後も、Sの母の証言は日を置くごとに詳細さを増していった<ref>[[#福島、新屋|福島、新屋 (1999)]] 232-235頁</ref>。

==== 勾留の延長 ====
{| class="wikitable floatright" style="font-size:90%;"
|+ 那須の身柄拘束状況
| {{0}}8月22日 || 本件逮捕（殺人）
|-
| {{0}}8月25日 || 勾留開始（最大10日間）
|-
| {{0}}9月{{0}}3日 || 勾留延長（最大10日間）
|-
| {{0}}9月12日 || 鑑定留置（最大30日間）
|-
| 10月12日 || 別件逮捕<br />（銃砲等所持禁止令違反）
|-
| 10月14日 || 勾留開始（最大10日間）
|-
| 10月22日 || 本件再逮捕
|-
| 10月24日 || 本件起訴
|}
市警と地検は、押収した証拠物の鑑定や、事件の動機と見なした変態性欲を確認するための那須に対する[[精神鑑定]]も行ったが、その結果はなかなか出揃わなかった<ref name="井上47"/>。逮捕から[[勾留]]期限の10日間と延長期限のさらなる10日間が過ぎ、精神鑑定によってさらに認められた30日間の鑑定[[留置]]も決定的な証拠の見つからないままに過ぎ去った<ref name="井上47">[[#井上11|井上 (2011)]] 47-48頁</ref>。

窮余の策として、市警は鑑定留置期限の前日10月12日に銃砲等所持禁止令違反容疑で那須を[[逮捕#再逮捕|再逮捕]]した<ref name="井上47"/>。那須が子供の頃に玩具にしていた骨董品の拳銃については、9月7日に不法所持について[[始末書]]を提出して済まされていたはずであった<ref>[[#佐藤|佐藤(1982)]] 44頁</ref>。この別件逮捕に加え、市警は[[微罪]]を理由とした[[保釈]]を防ぐために、殺人罪という以前と同じ罪状で10月22日に異例の再逮捕を行っている<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 51頁</ref>。だが、那須は2日後に[[起訴]]されるまで一貫して[[自白]]を拒否し続けた<ref>[[#福島、新屋|福島、新屋 (1999)]] 250頁</ref>（ただし、「[[裁判]]の結果[[無期懲役]]になろうが何うなろうが[[裁判長]]の認定に任せる。[[控訴]]する気持はない」との那須の供述は後の裁判で自白として扱われた<ref>[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 113頁</ref>）。

==== 精神鑑定 ====
10月25日になってようやく、長引いていた精神鑑定の結果が地検に提出された<ref name="福島241"/>。しかしその鑑定を9月10日に嘱託されていた精神科医は、Sと松永を通じて利害関係にあるはずの丸井清泰であった<ref name="福島241">[[#福島、新屋|福島、新屋 (1999)]] 241-242頁</ref>。その鑑定書では丸井は9月10日から10月25日まで那須を検診して鑑定を行ったとしているが<ref name="福島241"/>、実際に丸井が那須を検診したのはある一日の15分間のみで、検診の内容も「日本一高い山は」「馬の脚は何本」「いろはを答えよ」といった内容ばかりであった<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 47頁</ref>。丸井は那須の知人十数人の供述から、那須の[[責任能力]]を認めながらも「所謂変質状態ノ基礎状態テアル生来性[[神経衰弱症]]」「表面柔和ニ見イナカラ内心即チ[[無意識]]界ニハ残忍性『[[サディズム|サディスムス]]』的傾向ヲ包蔵シテ居リ両極性相反性ナル性格的傾向ヲ顕著ニ示ス」と鑑定した<ref name="大塚32">[[#大塚|大塚 (1979)]] 32-33頁</ref>。「謹厳」「おとなしい」といった肯定的な評判も、残忍性や女性への興味を抑圧した結果の反動であると解釈された<ref>[[#後藤|後藤 (1979)]] 167-168頁</ref>。

丸井に対して嘱託されていたのは那須の精神状態に関する鑑定のみであったが、丸井はさらに鑑定書に以下の文言を付け加えた<ref name="福島241"/>。
{{quotation|以上ニ細説シ来ッタ如ク精神医学者、[[精神分析学者]]トシテ鑑定ハ凡テノ事実ヲ各方面ヨリ又アラユル角度カラ考察シ被疑者ハ少ナクトモ[[心理学]]的ニ見テ本件ノ真犯人テアルトノ確信ニ到達スルニ至ッタ|丸井鑑定書（10月25日付）より<ref name="大塚32"/>}}

==== 血痕鑑定 ====
一方、那須のもとから押収されたズック靴と白シャツを巡っては、さらなる混乱があった。この2つの物証は後に多くの鑑定人の元を行き来することになるが、それらの鑑定を松木に次いで受け持つことになったのが、弘大医学部に包括されながら併存していた青森医専の[[法医学]]教室教授、'''引田一雄'''であった<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 110-112頁</ref>。那須の逮捕直後の8月24日に医専に持ち込まれた物証について、引田はまずズック靴に対して鑑定を行ったが、松木の鑑定結果に反して血痕は発見されなかった（[[#引田靴鑑定|下表参照]]）。引田がこの結果を市警に伝えるや、市警は残りの物証を引田の元から引き揚げてしまった<ref name="井上11401">[[#井上11|井上 (2011)]] 40-41頁</ref>。そのため引田は白シャツに関しては肉眼での検査しか行えなかったのだが、その際にシャツに見たのは褪せた灰暗色の汚点で、仮に血であるとしてもかなり古いものであったという（[[#引田シャツ鑑定|下表参照]]）。

引田の元から引き揚げられたズック靴と白シャツは、次に'''国家地方警察青森県本部[[科学捜査研究所]]（科捜研）'''に渡った。しかし、科捜研が9月12日に提出した鑑定書ではまたしてもズック靴から血痕は見つからず（[[#科捜研靴鑑定|下表参照]]）、白シャツからはABO式血液型でB型の血液が検出されたものの、これだけではSの血液とも那須の血液とも判別できず、決め手とはならなかった（[[#科捜研シャツ鑑定|下表参照]]）。この間に那須の精神鑑定留置で作られた時間を利用し、地検は再び松木に物証の鑑定を依頼した<ref name="井上47"/>。松木はある'''市警技術吏員（[[鑑識|鑑識官]]）'''を共同鑑定人として10月半ばにズック靴と白シャツの鑑定を行い、両者からはそれまでの鑑定では触れられなかった多数の血痕が新たに発見された（下表[[#松木・鑑識靴鑑定|ズック靴鑑定]]・[[#松木・鑑識シャツ鑑定|白シャツ鑑定]]参照）。そして、松木・鑑識鑑定とほぼ同時に、東北大学医学部法医学教室[[助教授]]の'''[[三木敏行]]'''によっても白シャツの鑑定が行われ、この鑑定でもやはり白シャツからは血液が検出された（[[#三木シャツ鑑定|下表参照]]）。

決定的であったのは、それらの鑑定で白シャツから'''Q式血液型'''でQ（ラージ・キュー）型の血液が発見されたことであった。Sと那須の血液型はABO式でB型、{{仮リンク|MNS式血液型|label=MN式|fr|Système MNS}}でM型という点までが共通していた<ref name="田中204">[[#田中|田中 (2002)]] 204-207頁</ref>。しかし、Q式ではSがQ型で那須がq（スモール・キュー）型と食い違い、これによって白シャツの血痕はSの[[返り血]]であると判断された<ref name="田中204"/>。

===== 松木鑑定への疑惑 =====
那須の逮捕と起訴の決め手となったのが、松木らの行ったズック靴と白シャツについての鑑定結果であった。しかし、それらの鑑定については多くの疑義が呈されている。

まず、松木が最初にズック靴を鑑定したのは引田の鑑定よりも以前のことであるが、引田はズック靴に鑑定試料の切り取り跡を見ていない<ref name="福屋230"/>。8月の松木鑑定時には血液型の判別は不可能であったとされているのに、那須への逮捕状の請求書では血液型がB型と判定されたことになっている<ref name="田中96355">[[#田中96|田中 (1996)]] 355頁</ref>。その一方で、10月4日の再鑑定でも試料不足で判別できなかった血液型が、17日頃の共同鑑定では判別されており、ベンチヂン反応が陰性であったはずの左靴の「斑痕ア」も血液と鑑定されている（[[#松木・鑑識靴鑑定|下表参照]]）。さらに、反応には1日程度要するとされていた人血鑑定の結果も、2時間という短時間で得られている<ref name="佐藤130">[[#佐藤|佐藤 (1982)]] 130-131頁</ref>。加えて、ズック靴を領置した警官は「なんだかシミがついているからというんで、つばをつけてこすった」と[[公判]]で証言しており、このことから那須は、警官の[[唾液]]が血液と誤判定されたのではないか、と疑念を呈している<ref name="佐藤130"/>。{{Anchors|松木第一鑑定}}検察側は松木によるこの第一のズック靴鑑定結果を公判に提出するのを拒み続け、結局それが明らかにされたのは[[再審]]が開始された[[1977年]]（昭和52年）になってからであった<ref name="井上182">[[#井上11|井上 (2011)]] 182-183頁</ref>。

片や松木の共同鑑定人となった市警鑑識官は、鑑定直後に「那須はシロだ」と知人に漏らしている<ref name="鎌田159">[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 159-160頁</ref>。鑑識官によれば、白シャツに付着していた斑痕は飛沫痕の特徴である星型痕ではなく、[[駒込ピペット]]で垂らしたような洋梨型であったという<ref name="鎌田159"/>。さらに、人血鑑定には抗人血清沈降素や[[遠心分離機]]が必要であるにもかかわらず、当時の松木医院にあった設備は「[[試験管]]が5、6本」であったという<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 162頁</ref>。

{{Anchors|松木・鑑識鑑定図}}<gallery caption="ズック靴と白シャツに対する松木・鑑識鑑定書の添付図" widths="350px" heights="350px">
Analysis for the shoes by Matsuki and Hirosaki City PD (Hirosaki incident).jpg|{{quotation|該靴に附着しある斑痕（単なる斑痕、血液、人血液等を含めて）は噴出したものの細かなものが飛び着いたものと思われ、前に附着しある物件に接触して着いたもの若しくは上から滴り落ちて着いたものとは思われない。|ズック靴に対する松木・鑑識鑑定書（10月19日付）より<ref name="吉岡144">[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 144-145頁</ref>{{Efn|カタカナ表示の斑痕は洗浄以前から認められたもので、ひらがな表示の斑痕は洗浄後に認められたもの<ref>[[#木村82|木村 (1982)]] 139頁</ref>。}}}}
Analysis for the shirt by Matsuki and Hirosaki City PD (Hirosaki incident).jpg|{{quotation|特にホ点及イ点は上方に突起部がある{{Interp|原文では描図されている|和文=1}}型で下方から附着点に立てた垂直面に斜めに飛び来たつて附着した如く認められ、ヘ点及びト点は上方斑痕部に平行して近くから滴下した如く認められそれも内側からのものとは認められず、又接触して附着したものとは思われない。|白シャツに対する松木・鑑識鑑定書（10月19日付）より<ref name="吉岡147">[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 147-149頁</ref>{{Efn|シャツ前面の×の入った斑点と背面の斜線の入った斑点は、対照のための試料とされた部分<ref name="木村821308"/>。「斑痕チ」は科捜研鑑定ですでに切り取られていたため白抜きになっている<ref name="田中38"/>。「斑痕ト」も同様に白抜きとなっているが、その理由は不明<ref name="田中38">[[#田中|田中 (2002)]] 38-39頁</ref>。また、図に記載されなかった斑痕も別にある<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 52頁</ref>。}}}}
Bloodstains on the shirt (Hirosaki incident).jpg|白シャツ鑑定書添付図に記載された斑痕の形状・サイズの詳細。斑痕Bは「斑痕イ」、Cは「ロ」、Eは「ニ」、Fは「ホ」、Iは「ヘ」に相当し、計測は後の再審時に[[仙台高裁]]刑事第二部が行ったもの<ref name="再審判決"/>。
</gallery>

== 裁判 ==
=== 一審 ===
白シャツからSと同型の血液が検出されたことただ一点を決め手として、那須は10月22日に銃砲等所持禁止令違反で、同月24日に殺人罪で、[[青森地方裁判所|青森地裁]]弘前支部に起訴された<ref>[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 25頁</ref>。公判は11月1日に開始され、銃砲等所持禁止令違反については争いがなく初日で審理は終わった<ref name="井上53">[[#井上11|井上 (2011)]] 53頁</ref>。しかし殺人については検察側、弁護側双方の主張が対立した<ref name="井上53"/>。

==== 証言 ====
那須の[[無実]]を訴える弁護側に対し、検察側は那須を「『[[獣人 (1938年の映画)|獣人]]』のような[[異常性格|異常性格者]]」であるとして[[日本における死刑|極刑]]を求めた<ref name="鎌田96">[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 96-97頁</ref>。弘前市民の大多数も那須の有罪を疑わず<ref>[[#新屋|新屋 (1992)]] 162頁</ref>、松永も当時の新聞に対して、那須は[[遺伝|遺伝性]]の異常性格者であり「社会の[[桿菌|バチルス]]の如きもので、[[社会進化論|社会の進化]]にとって[[絶滅]]すべき存在」であると語ってその処刑を支持している<ref name="鎌田96"/>。

[[一審]]検察側の立証は、その圧倒的多数が[[悪性格立証]]に頼るものであった<ref>[[#新屋|新屋 (1992)]] 152頁</ref>。検察側は「被告人は変態性欲者であるが」という、[[公訴#起訴状一本主義|起訴状一本主義]]に反した断定表現で[[冒頭陳述]]を開始し、多くの[[証人]]を申請してその証明を試みた<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 81頁</ref>。ズック靴の預かり主であった那須の後輩は、那須から人の殺し方や足音を立てない歩き方を話して聞かされた、と証言した<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 78-79頁</ref>。後輩の義姉も、夫がいない日に家に上がり込まれて殺人の話を聞かされ、結局半ば強引に家に泊めさせられたが、那須はその晩うなされていた、と証言した<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 82-85頁</ref>。これに対し弁護側は、警官志望者で[[推理小説|探偵小説]]のファンである那須が殺人の話をするのは不自然ではなく、人妻の家に泊まり込むことも変態性欲とは直結しないと反論した<ref name="吉岡47">[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 47-48頁</ref>。

目撃証人については、公判ではSの母の他にも事件当夜に不審な男を目撃したという近隣住民が幾人も出廷した<ref name="福島235">[[#福島、新屋|福島、新屋 (1999)]] 235-237頁</ref>。男が那須に非常によく似ていたと証言する者もいたが、彼らのうちでそれが那須であると断言した者はいなかった<ref name="福島235"/>。事件の前年に那須が大型[[ナイフ]]を持っていたと語った証人もいたが、那須はこれを否定した<ref>[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 36頁</ref>。

==== 第二の容疑者 ====
弁護側は、事件発生前の1949年5月から事件後の同年9月にかけて市内で発生し、[[弁護人]]の一人である三上直吉（弁護士登録番号23番、当時83歳で県[[弁護士会]]の最長老であった<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 98頁</ref>）が弁護を担当していた連続婦女傷害事件について、刃物を凶器とするなど本件と犯行様態が似ているとして法廷で取り上げた<ref>[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 81-82頁</ref><ref name="井上56">[[#井上11|井上 (2011)]] 56頁</ref>。しかし、すでに逮捕されて取調べを受けていたその事件の犯人について、本件でも調べを行ったが確たる反証が挙がった、と市警から証言があったため、真犯人の存在についてそれ以上の議論は起こらなかった<ref name="井上56"/>。後に検察側はこれを「那須を弁護するために自己の弁護する他の事件の被告人を犯人視する主張は弁護人の良識を疑わしめるものである」と批判した<ref>[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 124頁</ref>。

==== 古畑鑑定 ====
[[File:Furuhata Tanemoto.JPG|thumb|180px|古畑種基（1956年）]]
弁護側は、目撃証言や那須宅周辺の血痕の犯罪性についても不正確性を主張したが、物証となったズック靴と白シャツの鑑定結果についてはさらに厳しく批判した<ref name="吉岡47"/>。弁護側は、血痕が付着した犯行当時の着衣を犯人が逮捕日まで毎日着続けることはあり得ない、と主張した<ref>[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 52頁</ref>。弁護側の証人として出廷した引田も血痕の経年変色の専門家として、白シャツの斑痕は最近のものではあり得ない、と証言した<ref>[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 28-31頁</ref>。検察側はこれに対し、引田には本件以前にルミノール検査の経験がなく<ref name="吉岡56">[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 56-60頁</ref>、加えて引田は[[日本共産党|共産党]]のシンパであるため証言に信憑性がないと反論した<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 112頁</ref>。

弁護側はさらに踏み込んで、白シャツに付着していた血痕が、引田鑑定の「褪灰暗色」から三木鑑定の「赤褐色」へと時間の経過とともに鮮やかさを増していることを理由に、白シャツの血痕が捏造されたものであると主張した<ref name="吉岡47"/>。弁護側は、白シャツの再鑑定を[[東京大学]]もしくは[[慶應義塾大学]]へ委託して行うことを裁判所へ求め、裁判所がこれを容れて物証の再鑑定を行うよう命じたのが、[[東京大学医学部]]法医学教室教授の'''[[古畑種基]]'''であった<ref name="吉岡28">[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 28頁</ref>。

事件からおよそ1年後に行われた再鑑定で、古畑はズック靴について、斑痕の存在も人血の付着も認められないと結論した（[[#古畑靴鑑定|下表参照]]）。検察側はそれを前鑑定で試料が消費されたためであると反論した<ref>[[#福島、新屋|福島、新屋 (1999)]] 230頁</ref>。その一方で古畑は、白シャツに付着していた血痕はABO式、MN式、Q式、そして'''E式'''（この血液型鑑定が裁判に用いられたのは、日本の司法史上初のことである<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 142頁</ref>）の4つの血液型がSのものと完全に一致し、その赤褐色の人血痕は事件現場の畳表の血液と同時期のものであると結論付けた（[[#古畑シャツ鑑定|下表参照]]）。

===== 数学鑑定 =====
血痕鑑定に加えて古畑は、[[東京工業大学]][[工学部]]教授の[[小松勇作]]の協力の下、[[ベイズの定理]]を用いて白シャツの血痕と現場の血痕が同一人物のものであることの証明も試みている<ref name="古畑124"/>。
{{quotation|尚兩者の血痕が同一人の血液に由來するものである[[確率]]は、

<math>W_1=\frac{X}{X+Y}=\cfrac{1}{1 + \cfrac{Y}{X}}</math>

<math>X</math>: 同一人物であつた時の一致率<br /><math>Y</math>: 一般人の間に出現する頻度

異る人間の血液である確率は

<math>W_2=\frac{Y}{Y+X}=\cfrac{1}{1 + \cfrac{X}{Y}}</math>

の式から得られる。之に從つて計算した値は、

<math>W_1=0.985</math> 或は <math>98.5\%</math>, <math>W_2=0.015</math> 或は <math>1.5\%</math>

となる。卽ち疊表についている血痕と開襟シヤツについている血痕が同一人の血液である確率は〇・九八五又は九八・五[[パーセント|%]]であり兩者の血痕が同一人の血液でない確率は〇・〇一五又は一・五%となる。理論上〇・九八五の確率であるといふことは實際上は同一人の血痕であると考へて差支へないことを示しているのである。|古畑鑑定書（[[1950年]]（昭和25年）9月20日付）より<ref name="田中216">[[#田中|田中 (2002)]] 216頁</ref>}}
上の計算で古畑は、白シャツの血痕と現場の畳表の血痕の一致率を <math>X</math> と置き <math>X=1</math>、[[日本人]]におけるBMQE型血液の持ち主の割合である1.5パーセントを <math>Y</math> と置き <math>Y=0.015</math> とそれぞれ設定してベイズの定理に代入し<ref>[[#田中80|田中 (1980)]] 123-124頁</ref>、両者の血痕は98.5パーセントの確率で同一人のものであると結論した<ref name="田中216"/>。この計算に対し弁護側は、1.5パーセントの誤差がある以上、それは[[人口]]6万人の弘前市においてSの他に900人の[[被害者]]候補がいることを示していると反論した<ref name="吉岡535"/>。

===== 確率計算に対する批判 =====
古畑が確率論を用いた鑑定を行ったことに対しては、数学者からも後に多くの批判がなされている。上のように、古畑鑑定書には極めて不完全な形でしか数式が現れず<ref>[[#半沢|半沢 (1995)]] 256頁</ref>、これを一般的なベイズの定理に復元するためには、まず次のような手順を踏まねばならない。

血痕がBMQE型である確率を <math>P(A)</math>、血痕がSのものである確率を <math>P(B_1)</math>、血痕がSのものでない確率を <math>P(B_2)</math> と設定すると、鑑定書にある「両者の血痕が同一人の血液に由来するものである確率」<math>W_1</math> とは「血痕がBMQE型である」という事象が起きた上で「血痕がSのものである」という事象が起きる[[事後確率]] <math>P(B_1|A)</math> を指していることになる（<math>W_2</math> は単純に1からこれを引くことで得られる）<ref name="半沢2601">[[#半沢|半沢 (1995)]] 260-261頁</ref>。一方で「同一人物であった時の一致率」<math>X</math> は「血痕がSのものである」という事象が起きた上で「血痕がBMQE型である」という事象が起きる事後確率 <math>P(A|B_1)</math> を指しており、こちらは当然

<math>X=P(A|B_1)=1</math>

である<ref name="半沢2601"/>。「一般人の間に出現する頻度」<math>Y</math> は「血痕がBMQE型である」上で「血痕がSのものでない」場合の確率であるので

<math>Y=P(A|B_2)</math>

と表すことができる<ref name="半沢2601"/>。また、「血痕がSのものである」という事象 <math>B_1</math> と「血痕がSのものでない」という事象 <math>B_2</math> は[[完全系]]をなしているため、任意の事象 <math>C</math> に対して

<math>P(C)=P(C\cap B_1)+P(C\cap B_2)</math>

が成り立つ<ref name="半沢259">[[#半沢|半沢 (1995)]] 259頁</ref>。さらに任意の事象 <math>D</math> に対しても

<math>P(D|C)=\frac{P(C\cap D)}{P(C)}</math>

が成り立つため、確率 <math>P(A)</math>、<math>P(B_1)</math>、<math>P(B_2)</math> に対しても

<math>P(B_1|A)=\frac{P(B_1)P(A|B_1)}{P(B_1)P(A|B_1)+P(B_2)P(A|B_2)}</math>

が成立する<ref name="半沢259"/>。この復元手順については多くの数学者の間で一致がみられる<ref name="半沢262">[[#半沢|半沢 (1995)]] 262頁</ref>。ところが、上の式は

<math>W_1=P(B_1|A)=\frac{P(B_1)P(A|B_1)}{P(B_1)P(A|B_1)+P(B_2)P(A|B_2)}=\frac{P(B_1)X}{P(B_1)X+P(B_2)Y}=\frac{X}{X+Y}</math>

を表しているのであり、この等式は

<math>P(B_1)=P(B_2)=\frac{1}{2}</math>

すなわち、血痕がSのものである確率とSのものでない確率は五分五分である、という仮定を置かなければ成立しない<ref name="半沢2601"/>。つまり古畑鑑定では初めから那須が犯人である蓋然性が50パーセントと設定されていることになる<ref>[[#半沢|半沢 (1995)]] 264頁</ref>。のみならず古畑は <math>P(A|B_2)</math> に日本人におけるBMQE型血液の持ち主の割合を代入しているが、これは日本人全員が那須のシャツに血痕を付ける機会を持っていた、と述べているに等しい仮定である<ref>[[#田中80|田中 (1980)]] 122頁</ref>。さらに、古畑がなした2つの仮定を連立させると

<math>P(A)=P(A\cap B_1)+P(A|B_2)P(B_2)=P(B_1)+\frac{0.015}{2}=0.5075</math>

が得られるので、<math>W_1</math> の値はベイズの定理とは無関係に

<math>W_1=P(B_1|A)=\frac{P(A\cap B_1)}{P(A)}=\frac{P(B_1)}{P(A)}=\frac{0.5}{0.5075}\fallingdotseq 0.985</math>

と算出できてしまう<ref name="半沢262"/>。すなわち、古畑が鑑定書で用いているのは事実上の[[循環論法]]である<ref>[[#半沢|半沢 (1995)]] 266頁</ref>{{Efn|上記のような批判とは別に、Sの血液が白シャツに付着したさらなる原因、例えば犯行時以外にSの血液が付着した可能性を[[事前確率]]として算入すれば、0.985という値はさらに低下する、として古畑鑑定を批判する考えもある（[[大阪大学法学部]]教授の浜上則雄と、同大学[[大学院]][[法学研究科]]博士課程の[[加賀山茂]]による）<ref>[[#浜上、加賀山|浜上、加賀山 (1977)]] 99頁</ref>。しかし、古畑がなしている2つの仮定に無批判であるこの再計算に対しては、古畑鑑定を擁護する東京大学医学部法医学教室教授の[[石山いく夫|石山昱夫]]のみならず、古畑鑑定に批判的な[[金沢大学]]教養部助教授の[[半沢英一]]からも批判が加えられている<ref>[[#半沢|半沢 (1995)]] 270頁</ref>。}}。

=== 一審判決 ===
[[File:First judgement of Hirosaki incident.JPG|thumb|280px|無罪判決に感涙する那須。その背後の傍聴席に松永（△印の人物）。]]
精神鑑定と血痕鑑定の結果を主な争点として、1年2か月間の審理で30回の公判を重ねた末、[[傍聴|傍聴人]]が廊下まではみ出した法廷で、[[1951年]]（昭和26年）1月12日に一審[[判決 (日本法)#刑事訴訟における判決|判決]]は言い渡された<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 58-59頁</ref>。

{{quotation|主文<ref name="吉岡535">[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 53-55頁</ref>

被告人を罰金五千円に処する。<br />被告人に於て右罰金を完納することができないときは金弐百円を壱日に換算した期間被告人を労役場に留置する。被告人に対する公訴事実中殺人の点については被告人は無罪。}}

裁判長の豊川博雅は、銃砲等所持禁止令違反についてのみ有罪として[[罰金刑]]を科し、殺人については[[無罪]]とする判決を言い渡した<ref name="吉岡535"/>。しかし、その理由については「その証明十分ならず結局犯罪の証明なきに帰する」とだけ述べて、一切の説明を加えなかった<ref name="吉岡535"/>。この手抜き同然の判決<ref>[[#渡部|渡部 (2002)]] 155頁</ref> に対し、傍聴人からは非難の声が巻き起こり、[[検事]]は席を蹴って退廷し、Sの母は傍聴席で卒倒した<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 106頁</ref>。

判決に理由が欠けていたのは、[[仙台高等裁判所秋田支部|仙台高裁秋田支部]]への転任を控えていた豊川が多忙を極めていたためであったが、この配慮に欠ける判決が控訴審で逆転有罪の原因となったのではないか、と豊川は後々まで後悔し続けることになる<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 60-62頁</ref>（後日検察側が提出した控訴趣意書にも、理由を欠いた判決が[[b:刑事訴訟法第378条|刑事訴訟法第378条第4項]]に違反しているとの主張がある<ref>[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 65頁</ref>）。無罪判決の理由について後に豊川が語ったところによると、那須は変わり者ではあったが殺人を犯すまでとは思わず、白シャツの斑痕についても古畑鑑定も相当重視したが、斑痕は素人目に見ても引田の言うように古いものに見えたためであるという<ref>[[#福島、新屋|福島、新屋 (1999)]] 225頁、244頁</ref>。

判決後、松永は[[仙台高検]]へ宛てた手紙の中で引田の医学者としての能力を批判し、控訴審では自分に鑑定をさせるよう要請した<ref name="吉岡56"/>。ほどなく、同年3月を以て青森医専は閉校された<ref name="弘大"/>。医専の教授たちは自動的に弘大医学部の教授へと横滑りしたが、検察宛ての手紙で松永が予言した通りに、医専の教授陣の中で引田だけが[[教授会]]の審査にかけられ、[[退官]]処遇となった<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 115頁</ref>。

=== 控訴審 ===
1月19日、検察側は銃砲等所持禁止令違反と殺人の双方について控訴を申し立てた<ref name="吉岡61">[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 61頁</ref>。弁護側は前日の18日に銃砲等所持禁止令違反について控訴していたが、争点を殺人に絞るために<ref name="井上66">[[#井上11|井上 (2011)]] 66-67頁</ref> 20日に控訴を取り下げた<ref name="吉岡61"/>。

控訴審は管轄上では仙台高裁秋田支部で開かれるはずであったが、同支部に一審裁判長の豊川が赴任していたことから、公正を疑われることを恐れた仙台高裁[[裁判官会議]]は事件を本庁で審理すると決議した<ref name="吉岡61"/>。審理は仙台高裁刑事第二部で6月19日から行われ、検察は仙台高検が担当した<ref name="井上66"/>。

==== 再度の精神鑑定 ====
検察側は那須が変態性欲者であるとなおも主張し、裁判所に対し再度の精神鑑定を要請した<ref name="吉岡70"/>。これを受けて裁判所は東北大学医学部教授の[[石橋俊実]]に鑑定を命じ、石橋は8月21日から12月11日までの間の那須への問診と、一審記録を総合して鑑定書を作成した<ref name="福島243">[[#福島、新屋|福島、新屋 (1999)]] 243頁</ref>。那須の性格や知人の証言のみならず、既往症や性生活、遺伝歴や家族歴までも調査した結果、石橋は「被告人が変態性欲者であるという断定は下し得ない」と結論した<ref name="福島243"/>。

この再鑑定結果を受け、検察側は那須の性向を「変態性欲者」から「[[変質者]]」へ下方修正し、犯行は変質性に駆られてのものであるとして[[情状酌量]]を求めて[[求刑]]を無期懲役へ引き下げた<ref>[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 104頁</ref>。変態性欲者の犯行という見立ては崩れたが、検察側は「動機は犯罪の[[構成要件]]ではない」としてその証明を放棄した<ref>[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 103頁</ref>。

==== 松永証言 ====
控訴審でも一審と同様に現場検証や目撃者の証人調べが行われたが、特段の新事実は得られなかった<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 67-68頁</ref>（なお、この現場検証で裁判長の中兼謙吉は那須に対し「どういう格好でやったのか。おいキミ、ここに来てやってみろ」と発言している<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 114頁</ref>）。

しかし、検察側の要請により出廷した松永は控訴審で新たな証言を行った<ref name="吉岡70">[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 70-72頁</ref>。松永が自身の証言とともに法廷に提出したのは、一審公判における那須の[[呼吸]]数の変化の記録であった<ref name="吉岡17583"/>。一審の間、那須を真後ろの傍聴席からおよそ3メートルの距離で観察し続けた松永は、平常時は1分間に18回から20回程度である那須の呼吸数が、自身に不利な尋問を聞いている際は25回から30回まで上昇した、と証言した<ref name="吉岡17583">[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 175-183頁</ref>。

==== 古畑証言 ====
松永以外にも、検察側の求めに応じて出廷した古畑は白シャツの鑑定について詳細な解説を加えた<ref name="吉岡70"/>。一審と同じく古畑は、白シャツの血痕は98.5パーセントの確率でSのものであると証言し、弁護側が主張した血痕の捏造についても否定した<ref name="吉岡186">[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 186-187頁</ref>。引田鑑定との斑痕の色の食い違いも、個人の感覚であり問題にはならないと答えた<ref name="吉岡186"/>。一審で弁護側が持ち出した「900人の被害者」理論に対しては、白シャツの血痕は動脈から飛散したものが付着したものとみられるが、動脈が損傷したBMQE型の人間が900人もいるものか、と反論した<ref>[[#古畑58|古畑 (1958)]] 129頁</ref>（しかし、鑑定書では古畑はそれを計算に入れていないので、弁護側の指摘が正しかったことになる<ref>[[#半沢|半沢 (1995)]] 268-269頁</ref>）。

弁護側から、人血鑑定以前の段階を検査できなかったほどの微量の試料から、かくまで複雑な鑑定が可能であったのか、と追及された古畑は「他の方なら不可能かもしれません。しかし、私なら可能です」と断言した<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 69-70頁</ref>。また検察側も、過去に発生した殺人事件で引田が血液型の誤鑑定を犯していたことを挙げ、引田鑑定と「血液型に関して日本の、否、世界の権威者」古畑の鑑定のどちらを信用すべきかは明らかである、とした<ref>[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 94-95頁</ref>。

その一方で、事件直後の捜査で那須宅周辺から発見され、人血とされていた斑痕の数々については、古畑は「すべて血痕の付着の証明はない」と鑑定している<ref>[[#渡部|渡部 (2002)]] 145-146頁</ref>。

=== 控訴審判決 ===
第一回公判から1年足らずが経過した[[1952年]]（昭和27年）5月31日、那須に対する判決は言い渡された<ref name="吉岡10520">[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 105-120頁</ref>。

{{quotation|主文<ref name="吉岡10520"/>

原判決を破棄する。<br />被告人を懲役拾五年に処する。<br />原審押収の拳銃一挺（証一号）はこれを没収する。<br />原審及び当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。}}

中兼は一審判決を破棄し、殺人と銃砲等所持禁止令違反の双方で有罪を宣告し、両者の[[併合罪]]で[[懲役]]15年の判決を言い渡した<ref name="吉岡10520"/>。殺人の容疑については、
* Sの母、近隣住民、知人の証言
* 「裁判の結果無期懲役になろうが何うなろうが裁判長の認定に任せる。控訴する気持はない」との那須の供述
* 那須にアリバイがない点
* 白シャツについての松木・鑑識鑑定、三木鑑定、古畑鑑定の結果
* ズック靴についての松木・鑑識鑑定の結果
* 那須を変態性欲者とする丸井鑑定の結果
* 事件直後の捜査で那須宅周辺から血痕が発見された点
などを総合して有罪の理由とした<ref name="吉岡10520"/>。控訴審判決はほぼ全面的に検察側の主張に依拠し、特に精神鑑定についての判断は、検察側ですら撤回した丸井鑑定の結果を「[[経験則]]に反しない」との理由から受け入れている<ref name="吉岡10520"/>。

==== 判決の影響 ====
この裁判は、血痕鑑定の結果をほぼ唯一の証拠として有罪判決に辿り着いた法医学上のモデルケースとされ<ref name="吉岡序">[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 序</ref>、青森地検弘前支部は、通常は5年で廃棄される裁判記録を若手検事育成のために保管する特別処分を採った<ref name="井上77101">[[#井上77|井上 (1977)]] 101頁</ref><ref>[[#田中|田中 (2002)]] 26頁</ref>。古畑も[[法務総合研究所|検察研究所]]で鑑定について繰り返し講演を行い<ref name="吉岡序"/>、那須を有罪に導いた自身の功績を『[[#古畑58|法医学の話]]』を始めとした数々の自著で喧伝した<ref>[[#大塚|大塚 (1979)]] 27頁</ref>。

その一方で、困窮する那須家は度重なる裁判でさらなる負担を受けた<ref name="井上11656"/>。家族は弁護費用のために知人からの借金を重ね、甲冑や古文書など先祖伝来の家宝も売却し、一審終了までには[[明治]]から構えていた屋敷さえ売り払った<ref name="井上11656">[[#井上11|井上 (2011)]] 65-66頁</ref>。しかし、移り住んだ先の住居にも投石や塀の破壊が行われ、出前が大量に送り付けられるなどの嫌がらせが繰り返された<ref name="鎌田182">[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 182-183頁</ref>。弘前で知られた「那須」の名字はいじめや求職での不採用に直結し<ref name="鎌田182"/>、妹の一人は8回の転職を余儀なくされた<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 123頁</ref>。

== 上告棄却と服役 ==
{{最高裁判例
|事件名=殺人、銃砲等所持禁止令違反被告事件
|事件番号=昭和27（あ）4113
|裁判年月日=1953年2月19日
|判例集=刑集第7巻第2号305頁
|裁判要旨=
# 鑑定とは、裁判上必要な[[実験則]]などに関する知識経験の不足を補うために、指示された事柄を第三者に新たに調査させ、法則やそれに基づく具体的事実判断を報告させるものである。
# 鑑定を行うに当たって必要とされる特別な知識経験は、必ずしも鑑定人その人の直接経験により得たものには限定されない。鑑定人は他人の著書やその他のものから得た知識によっても鑑定を行うことができる。
|法廷名=第一小法廷
|裁判長=[[岩松三郎]]
|陪席裁判官=[[齋藤悠輔]]、[[入江俊郎]]
|多数意見=全員一致
|意見=なし
|反対意見=なし
|参照法条=[[b:刑事訴訟法第165条|刑事訴訟法第165条]]
|url=https://web.archive.org/web/20140106195711/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319122254403401.pdf
}}
判決から一週間後の6月6日、那須は「逃亡の恐れ」を理由に[[宮城刑務所]][[仙台拘置支所]]に勾留された<ref name="鎌田164">[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 164-165頁</ref><ref>[[#井上11|井上(2011)]] 76頁</ref>。

弁護側は9月10日付で[[上告]]趣意書を[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]へ提出した<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 79頁</ref>。その上告趣意としては主に、裁判に無関係な小松の協力を得て行われた古畑鑑定の確率計算、そして公判手続き終了まで一度も弁護側に開示されなかった白シャツを基にした血痕鑑定はいずれも証拠能力を欠き、加えて起訴状の冒頭にある「被告人は変態性欲者であるが」という断定表現も裁判官に予断を与えるものであった、ということが挙げられた<ref name="鎌田164"/>。しかし、[[岩松三郎]]が指揮する最高裁第一[[小法廷]]は弁護側の主張をすべて退けて翌[[1953年]]（昭和28年）2月19日に上告を[[棄却]]し、那須は[[秋田刑務所]]へ収監された<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 93頁</ref>。

獄舎の那須はすぐさま家族へ向けて再審請求を訴えたが、元[[裁判所書記官]]であり再審の壁の厚さを理解していた那須の父は、真犯人を見つけ出す以外に方法はない、と那須に隠忍自重を求めた<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 89-90頁</ref>。

=== 仮釈放へ ===
那須は秋田刑務所で5年間服役し、宮城刑務所へ移監された<ref>[[#佐藤|佐藤 (1982)]] 147頁</ref>。秋田刑務所では良好な服役態度から、社会人に準ずる扱いを受ける一級[[模範囚]]への特進を異例の早さで提案された<ref name="井上110">[[#井上11|井上 (2011)]] 110頁</ref>。しかし那須は改悛の情を示すことを拒否し、特進を辞退した<ref name="井上110"/>。宮城刑務所でも那須は謝罪を拒否し続けていたが、当時の分類課長の取り成しによって一級模範囚へと特進した<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 49-50頁</ref>。模範囚であったため[[仮釈放]]の機会は幾度も巡ってきたが、[[地方更生保護委員会|更生保護審議会]]の面接でも那須は犯行を否認し続けたため、仮釈放が却下されることは6回に上った<ref>[[#佐藤|佐藤 (1982)]] 150-152頁</ref>。

しかし、長年の刑務作業で患った[[脊椎]]の治療を拒否されたことで獄死の恐怖が募り<ref>[[#佐藤|佐藤 (1982)]] 154頁</ref>、服役から10年余りが経過した[[1962年]]（昭和37年）8月に末弟が水難事故死したことで那須の心境は変わった<ref name="井上115">[[#井上11|井上 (2011)]] 115-116頁</ref>。死んでなお、人殺しの兄の祟りと罵られる弟のことを聞いた那須は、7回目の面接を更生保護審議会へ申請した<ref name="井上115"/>。「君がやったのか」との面接官の問いに那須は「やったことを認めます」と答えたが、「自白は仮釈放のためではないか」との問いには回答しなかった<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 174-175頁</ref>。

しかし、申請は認められた<ref name="井上11117"/>。[[1963年]]（昭和38年）1月18日、那須は39歳で宮城刑務所から仮釈放された<ref name="井上11117">[[#井上11|井上 (2011)]] 117頁</ref>。那須が獄中で10年間貯め続けた作業賃金は、すべて滞納していた訴訟費用の支払いに消えた<ref>[[#佐藤|佐藤 (1982)]] 158頁</ref>。

== 真犯人の出現 ==
出所後も、那須は縁者を頼って職を転々としながら、かつての証人たちや元の弁護人たちを訪ね歩いたが、結果はいずれも思わしくなかった<ref name="井上124">[[#井上11|井上 (2011)]] 123-125頁</ref>。弁護人たちはいずれも世を去るか病床にあるかで、弁護側の裁判資料も散逸してしまっていた<ref name="井上124"/>。その一方で、新情報があると那須に持ちかけてくる[[詐欺師]]も少なくなかった<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 101頁、125頁</ref>。かつての友人も一人残らず失ったが、「自分で自分に強くなればそれでいい」との一心で那須は弘前へ留まり続けた<ref name="弘前88">[[#弘前|弘前大学アムネスティ・クラブ、福島 (1992)]] 88頁</ref>。

やがて那須は地元でも名刺を出さずに済む浴場管理人の職も見つけ<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 194頁</ref>、[[1965年]]（昭和40年）には遠縁の女性と結婚した<ref name="井上124"/>。日常生活も安定し雪冤への熱意も薄れ始めた頃の<ref name="井上7753">[[#井上77|井上 (1977)]] 53-54頁</ref>[[1971年]]（昭和46年）5月28日<ref>[[#佐藤|佐藤 (1982)]] 160頁</ref> の朝、{{Anchors|M}}一人の男が那須宅を訪れ、応対した那須の母に「驚かないでください。真犯人が名乗り出ました」と切り出した<ref name="井上132">[[#井上11|井上 (2011)]] 132-134頁</ref>。「それは'''X'''ですか」と尋ねた那須の母の言葉に、男は首肯した<ref name="井上135">[[#井上11|井上 (2011)]] 135-136頁</ref>。

=== 真犯人X ===
[[1930年]]（昭和5年）に[[北海道]]で生まれたXが[[函館大火]]に焼け出されて弘前へ移り住んだのは、彼が3歳の時のことであった<ref name="井上11">[[#井上11|井上 (2011)]] 11-12頁</ref>。子供の頃から那須とは顔見知りで<ref>[[#佐藤|佐藤 (1982)]] 138頁</ref>、那須の弟とも[[尋常小学校]]で同級であったXは<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 104頁</ref>、[[国民学校]][[高等小学校|高等科]]を卒業すると同時に15歳で[[運輸通信省 (日本)|国鉄]][[弘前運輸区|弘前機関区]]へ就職した<ref name="井上11"/>。Xは庫内手から機関助手見習、機関助士へと同期の誰よりも早く昇進し、先輩からの信頼も厚かった<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 220頁</ref>。

しかし、1945年に日本が第二次世界大戦に敗戦すると、弘前にも進駐軍向けのダンスホールが林立し、夜毎そこに入り浸るようになったXは乗務に欠勤した挙句国鉄も退職した<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 222-223頁</ref>。その後は家業のミシン修理・販売業を手伝うようになったが、繁華街通いもやむことはなく、戦後に軍部から流出した[[ヒロポン]]によってXの女遊びには拍車がかかった<ref name="鎌田224"/>{{Efn|ヒロポン（[[覚醒剤]]）は1948年3月から[[薬事法の歴史#戦後昭和時代|薬事法]]によって取締りの対象となっていたが、1951年6月に[[覚醒剤取締法]]が制定されるまでは、その入手は容易であった<ref name="鎌田224">[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 224-225頁</ref>。}}。やがてXは女性を路上で押し倒したり、ナイフで傷付けたりするようになり、付近の弘大医学部付属病院看護婦寮への侵入を繰り返した<ref name="鎌田224"/>。

[[File:Map of the Hirosaki incident 2.png|thumb|280px|水色線D - Xの証言する逃走経路]]
1949年8月6日深夜、Xは[[ヤスリ]]を[[グラインダー]]で尖らせた手製のナイフを携行し、当時松永一家が寄宿していた先の家主の家へと向かった<ref name="井上12">[[#井上11|井上 (2011)]] 13-19頁</ref>。家主宅には以前ミシンの修理で訪れたことがあったため、そこに若い娘がいることは知っていたが、松永一家が間借りしていることは知らなかった<ref name="井上12"/>。ただ女性の体に触りたかっただけで姦淫する気はなかった、ナイフも護身用に持っていただけであった、とXは後に語っている<ref name="鎌田270">[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 270-271頁</ref>。

正面玄関は鍵がかかっていたので侵入を諦め、離れの松永宅へ辿り着いたXは、鍵のかかっていなかった縁側の戸を開けて8畳間へ侵入し、手前で横になっていたSの体に触れようとした<ref name="井上12"/>。その時、Sが動いた気がしたXは反射的にナイフでSの喉を突いた<ref name="井上12"/>。直後、子供の泣き声を聞いたXは現場から逃げ出し、途中で現場近くの井戸へ凶器のナイフを捨てようとしたが、現場から近過ぎる、と考え直して<ref name="井上12"/> 翌日に市内の映画館のトイレに投棄した<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 276-277頁</ref>。
{{quotation|そいで雨戸がスッとあいて、身体はいる分だけあけて、膝かぶついて這っていったんだっちゃ。で、ホレ、蚊帳あったもんで、それもスッとあげて、女のひとが寝ていたんだっちゃ。胸のとこに、スッと手やるかなと思ったら、グッと動いたのさ。動いたような気したんだよな。こりゃ大変だ、目覚ましたら大変だって、いきなり、こっち{{Interp|右手|和文=1}}で、グッと刺したのさ、咽喉のどこさ。したら、むこうで、グッと{{Interp|首を|和文=1}}左サねじったもんで、切れだのさ。ボコボコって、水流れるみたいだ音して、そのまま抜いて逃げてきたんだっちゃ。|Xに対する再審判決後のインタビューより<ref name="鎌田270"/>}}

Xが弘大医学部付属病院看護婦寮への侵入で市警に[[現行犯逮捕]]されたのは、それからおよそ1か月が経過した9月3日のことである<ref name="井上11401"/>。Xは[[拘置所]]では那須とも挨拶を交わす仲で、那須が自分の罪を被らされていることも知っていた<ref name="井上41"/>。しかしXは、他の[[傷害罪|傷害]]や[[住居侵入]]については容疑を認めたが、Sの殺害については死刑を恐れて頑強に容疑を否認した<ref name="井上41"/>。また、差し入れの弁当殻に忍ばせたメモで拘置所内からアリバイ工作を頼まれていたXの母、そしてX宅に泊まり込んでいた仕事相手もXのアリバイを証言したため、XはS殺害の容疑者から外された<ref name="井上41">[[#井上11|井上 (2011)]] 42-44頁</ref>。

やがてXは3件の事件について[[強制性交等罪#強制性交等致死傷罪|強姦致傷罪]]や[[強盗致死傷罪#強盗傷人罪・強盗殺人罪|強盗傷人罪]]などで起訴され、1950年6月に青森地裁弘前支部で懲役10年の有罪判決を受けた<ref name="鎌田226">[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 226-227頁</ref>。仙台高裁秋田支部での控訴審でも1951年9月に懲役7年となり、やがて有罪が[[確定判決|確定]]したXは[[青森刑務所]]へ収監された<ref name="鎌田226"/>。那須の弁護に並行してXのこれらの事件の弁護も担当していた三上は、S殺害の真犯人はXであると那須の裁判で訴えたが、その主張は容れられなかった（[[#第二の容疑者|上記参照]]）。

5年ほど経ってXは仮釈放されたが、その直後の[[1957年]]（昭和32年）11月、またしても女性に対する強盗傷人容疑で逮捕された<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 226-227頁、230-231頁</ref>。一審青森地裁弘前支部で懲役7年の有罪判決を受け、{{Anchors|三浦}}およそ1年後に控訴審で逆転無罪となったが、その2か月後にも少女に対する暴行容疑で逮捕され、やがて[[不起訴]]処分となった<ref name="鎌田230">[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 230-231頁</ref>。これに不貞腐れたXは[[1960年]]（昭和35年）2月に実際に女性に対する強盗傷人事件を起こし、最高裁まで争ったが懲役10年の有罪判決が確定し、秋田刑務所へ収監された<ref name="鎌田230"/>。

==== 告白 ====
1963年7月、Xは那須が半年前に仮釈放されたばかりの宮城刑務所へ、秋田刑務所から移監された<ref name="鎌田230"/>。二十歳を過ぎてから人生のほとんどを監獄の中で過ごしてきたXは、やがて[[キリスト教]]へ傾倒するようになり、同時に自分が罪を背負わせた那須についての自責の念にも駆られ始めた<ref name="鎌田235">[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 235-237頁</ref>。しかし、かつての事件について[[公訴時効]]が成立しているか確信が持てなかったXは、なおも罪の告白をためらっていた<ref name="鎌田235"/>。

やがて歳月が流れ、Xにも仮釈放が目前に迫っていた1971年3月8日、Xを含めた数人の囚人たちは刑務所の病舎で、数か月前に発生した[[三島事件]]について話し合っていた<ref name="井上16">[[#井上77|井上 (1977)]] 16-19頁</ref>。囚人たちが[[三島由紀夫]]の男気を讃え、その反対に女狙いの犯罪を行ってきたXを非難し始めた時、Xはとっさに、自分が過去に殺人を犯し、その罪を他人に着せて逃れたことを口にした<ref name="井上16"/>。囚人たちの多くはこれを単なる虚勢ととらえ相手にしなかったが、[[わいせつ物頒布等の罪|猥褻図画販売罪]]で服役していた一人の男、'''M'''がこれに興味を示した<ref name="井上16"/>。Mにもまた、警察に[[司法取引#日本における司法取引|司法取引]]を反故にされて望まぬ罪を受けた過去があった<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 200-201頁</ref>。

ほどなくXとほぼ同時期に出所したMは、Xを自らの馴染みの弁護士である'''南出一雄'''（元[[思想検事]]であり、一審検事とは後輩の関係にあった<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 245-247頁</ref>）に引き合わせると同時に、Xの存在を那須家に伝えた<ref name="井上132"/>（[[#M|上記参照]]）。さらにMは独自の現場検証も行いつつ<ref name="井上132"/>、[[読売新聞]]東北総局で[[松山事件]]再審請求についての記事を書いていた記者の'''[[井上安正]]'''に連絡を取った<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 13-14頁</ref>。以降、弘前事件再審請求へ向けた活動は、X、M、南出、そして井上を始めとした読売新聞記者たちの共同作業で行われることになる<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 138頁</ref>。

南出により殺人罪の時効が成立していると保証されたXは事件について詳細に告白を始めたが<ref name="井上132"/>、南出は読売新聞に対して、再審請求の準備が整うまで一切の報道を差し控えるよう要請した<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 58頁</ref>。Xの生活が脅かされて告白が反故にされることを恐れたMと井上も、Xの職場に取材を行い始めた他のメディアからXを匿い、Xに新たな職を世話した<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 63-67頁</ref><ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 244頁</ref>。また、Xは那須に対して直接謝罪したいとも話していたが、2人が事前に口裏を合わせたと疑われることを恐れ、南出と井上は決してXと那須を面会させようとはしなかった<ref name="井上7753"/>。一方、那須は自分を陥れたXについて「むしろ感謝している<ref name="井上7753"/>」「人間の偽りのない心に触れた気がします<ref name="井上135"/>」と語り、決して恨みを述べることはなかった。

== 再審請求 ==
1か月ほどが南出がXへ聴取を行った頃、他紙への秘匿が限界に達したと判断した読売新聞は、6月30日付朝刊の社会面でスクープ記事を発表した<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 139頁</ref>。他紙はこの記事の後を追ったが、当時の捜査関係者に対する取材を充分に行わなかった読売に対して他紙はXの告白への疑惑色を強め<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 74-75頁</ref>、地元紙の[[東奥日報]]などは8段抜きで事件の冤罪を否定する連載を開始した<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 252頁</ref>。同時期にはXとMがそれぞれ[[窃盗罪|窃盗]]と[[職業安定法]]違反の容疑で拘束され、その取調べの際には、警察から殺人の告白を取消すよう圧力をかけられたという<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 249-250頁</ref>。

「Xにはアリバイがある」「告白は那須への[[国家賠償]]目当て」といった批判が続くなか、Mと井上らはかつてXがナイフを捨てたという映画館の跡地も捜索したが、凶器は発見されなかった<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 78頁、80頁</ref>。だが一方で、当時X宅に泊まり込んでいたXの仕事相手が現れ、事件の犯人はXだと考えていたが、商売に響かぬようにアリバイ工作に協力したと読売新聞に証言した<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 83頁</ref>。さらに、事件直後の調べで那須が「近隣住民が氷を削っている音を聞いた」と述べた（[[#氷|上記参照]]）その住民も、読売新聞の調べに対して、当時自宅で行っていた[[どぶろく]]の[[密造酒|密造]]について警察に追及されぬよう嘘をついたが、確かに事件当夜は自宅で氷を削っていたと認めた<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 106-107頁</ref>。

南出は仙台弁護士会の同僚たちとともに30人体制の再審弁護団を結成し、7月13日に再審請求書を仙台高裁へ提出した<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 142頁</ref>。また、[[日本弁護士連合会]]も9月17日に事件委員会を設置し、正式に[[日本弁護士連合会が支援する再審事件|再審請求の支援]]を開始した<ref>[[#弁護士白書|日本弁護士連合会 (2013)]] 7頁</ref>。日弁連の支援が決定されたこの日、79歳であった那須の父は息子の雪冤を見ることなく世を去った<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 149頁</ref>。

再審へ向けた事実調べでは、青森地検が裁判記録を特別に保管していたことが弁護側に有利に働いた<ref name="井上77101"/>。また、輪番制で高裁刑事第二部へ回されるはずであった再審請求も、刑事第二部裁判長はかつて那須に有罪判決を下した控訴審で陪席判事を務めた細野幸雄であるとの弁護側の抗議が容れられ、山田瑞夫が指揮する刑事第一部へと回された<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 251頁</ref>。

=== 現場検証 ===
証人調べと現場検証は、[[1972年]]（昭和47年）3月27日から一週間にわたって弘前で行われた<ref name="井上150">[[#井上11|井上 (2011)]] 150-151頁</ref>。裁判官らも同席した現場検証で、Xはかつての事件現場で自ら犯行を再現したが、この際にXは「廊下の幅はもっと狭かったはず」と疑念を呈している<ref name="後藤199">[[#後藤|後藤 (1979)]] 199-201頁</ref>。その言葉通り、現場の離れは1961年の改築で縁側の幅が広げられていた<ref name="後藤199"/>。さらに逃走経路の検証でもXは、途中でナイフを捨てようとした井戸は隣の建物の左側にあると主張した<ref name="後藤199"/>。事前の調査で建物の右側だけに井戸があることを把握していた弁護側は、Xの言葉を単なる記憶違いと思いXを建物の右手へ誘導しようとした<ref name="後藤199"/>。しかしXは「右の方は絶対行かないですから、右の方は関係ないですから」とそれを無視して建物の左手を掘り返させ、そこからは隣の家主すら20年間その存在を知らなかった井戸の跡が発見された<ref name="井上150"/><ref name="後藤199"/>。

廊下の幅や井戸の位置についての供述に加え、Xの証言は現場周辺の引き戸や踏石の状況、そして被害者と犯人の姿勢、位置関係などが事件当時の記録と一致していた<ref name="青地2025">[[#青地|青地 (1980)]] 202-205頁</ref>。その一方で証言は、現場の床材や窓の状況、そして犯行後に聞いた叫び声の内容などが当時の記録と食い違いを見せた<ref name="青地2025"/>。

=== 血痕再鑑定 ===
かつての裁判で有罪の決め手となった白シャツの血痕鑑定については、検察側と弁護側の双方が新たに鑑定人を立ててその検証が行われることとなり、弁護側は[[北里大学]]の'''[[船尾忠孝]]'''、検察側は[[千葉大学]]の'''[[木村康 (法医学者)|木村康]]'''の両大学医学部法医学教室教授をそれぞれ鑑定人として申請した<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 152頁</ref>。

当初、仙台高検から再鑑定を依頼された木村は、自身が古畑と親しかったため依頼に対しては言を左右していた<ref name="木村19">[[#木村98|木村 (1998)]] 19-20頁</ref>。しかし、その直後に木村は古畑の門下生筆頭で[[科学警察研究所]]所長であった[[井関尚栄]]から食事の名目で呼び出され、「いまさら古い事件を引っ掻き回すな」「法医学の権威を守れ」と再鑑定をしないよう圧力をかけられたという<ref name="木村19"/>。木村はこれに「真実の追究こそが法医学の使命である」と反発し、逆に再鑑定の依頼を引き受けることに決めたと後に述べている<ref name="木村19"/>。

{| class="wikitable"  style="text-align:center"
|+ ズック靴に対する鑑定{{Efn|血痕検査の手順には、
# まず対象の状態を観察する'''肉眼的検査'''
# 次にそれが血液らしきものであるかを判定する'''血液予備試験'''
# 次にそれが血液であるかを判定する'''血液本試験'''
# 次にそれが人血であるかを判定する'''人血鑑定'''
# そして'''血液型鑑定'''
という諸段階があり、これらの検査は必ず順を追って省略せずに行わなければならない<ref>[[#木村82|木村 (1982)]] 20-21頁</ref>。ただし、血液本試験と人血鑑定を同時に行うことができる検査法が後に実用化されたため、[[1950年代]]からは血液本試験が行われることは少なくなった<ref>[[#木村82|木村 (1982)]] 34-35頁</ref>。}}一覧
! 鑑定人 !! 鑑定日 !! 肉眼的検査 !! 血液予備試験 !! 血液本試験 !! 人血鑑定 !! 血液型鑑定 !! 結論
|-
! {{Anchors|松木靴鑑定}}松木明<ref>[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 136-137頁</ref>
| style="white-space:nowrap" | 1949年<br />8月20日{{sic}}<br />および<br />10月4日{{Efn|name="靴鑑定日"|ただし、後の[[国家賠償請求訴訟]]で[[被告]]となった国側は、ズック靴に対する松木鑑定の実施日は実際には8月21日であり、ズック靴に対する松木・鑑識鑑定のそれは実際には8月22日である、と[[一審]]で主張している<ref name="田中96355"/>。}} || 右靴の右上部、<br />左右の靴底、右靴紐 || style="background-color:#fdd" | [[アミノピリン|ピラミドン]]反応{{Efn|後述の[[ベンジジン|ベンチヂン]]と同様に[[ヘモグロビン]]に対して反応するが、後に実用的価値を失った検査法<ref name="田中33">[[#田中|田中 (2002)]] 33頁</ref>。}}陽性 || || style="background-color:#fdd;white-space:nowrap" |
* 右靴上部、左右靴底：<br />試料不足のため不可能
* 右靴紐：抗人血家兎<br />免疫血清反応{{Efn|[[1901年]]に[[ドイツ帝国|ドイツ]]の{{仮リンク|パウル・ウーレンフート|de|Paul Uhlenhuth}}により報告された抗人血清沈降素反応 ([[:de:Serum-Präzipitin-Test|de]]) のこと<ref name="木村45">[[#木村82|木村 (1982)]] 45頁</ref>。ヒト由来の[[タンパク]]に対して白い[[沈降反応]]をみる<ref name="木村45"/>。}}陽性
| 試料不足のため<br />検出不確実 ||style="background-color:#fdd" |
* 右靴上部、<br />左右靴底の斑痕：血液
* 右靴紐の斑痕：人血
|-
! {{Anchors|引田靴鑑定}}引田一雄<ref>[[#後藤|後藤 (1979)]] 163頁</ref>
| 8月24日 || style="white-space:nowrap" | 右靴紐に小指頭大の<br />暗褐色の斑痕、その他 ||style="background-color:#ddf" |
* 全体：[[ルミノール]]反応{{Efn|ルミノールの[[アルカリ]]溶液と[[過酸化水素水]]の混合溶液は、血液の特異成分であるヘモグロビン誘導体、[[ヘミン]]に対して強い[[化学発光]]を起こす<ref name="木村31">[[#木村82|木村 (1982)]] 31-32頁</ref>。このためルミノール反応は鋭敏度、特異性ともに優れた試験法であるが、ヘミンと反応せずとも試薬自体がわずかに発光する場合もあり、多用すると試料が変質し後続検査が不可能になるなどの欠点もある<ref name="木村31"/>。[[1936年]]に[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]の{{仮リンク|カール・グルー|de|Karl Gleu}}とカール・プファンスティールにより報告され、日本で犯罪捜査に利用されたのは、弘前事件の直前に発生した[[下山事件]]が最初である<ref name="木村31"/>。}}<br />陰性
* 右靴紐：[[ベンジジン|ベンチヂン]]反応{{Efn|ベンチヂン試薬はヘモグロビンに反応し青色に発色するが、各種金属化合物や果汁などでも同様の反応をみる<ref name="木村28">[[#木村82|木村 (1982)]] 28-29頁</ref>。[[1904年]]にドイツのオスカー・アドラーらによって報告された<ref name="木村28"/>。}}陰性<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 119頁</ref>
| || || ||style="background-color:#ddf" | 血液の証明なし
|-
!rowspan="2" style="white-space:nowrap" | {{Anchors|科捜研靴鑑定}}国警科捜研<ref name="吉岡138">[[#吉岡|吉岡 (1952)]] 138-144頁</ref>
|rowspan="2" | 9月1日-10日 ||rowspan="2" | || style="background-color:#fdd;white-space:nowrap" rowspan="2" |
* [[ハトメ]]部分全体：<br />ルミノール反応で中程度の蛍光
* 靴紐：ベンチヂン反応弱陽性
|style="background-color:#ddf;white-space:nowrap" | 靴紐：[[ヘミン]]結晶反応および<br />ヘモクロモーゲン<br />結晶反応{{Efn|血液の特異成分であるヘモグロビン誘導体、ヘミンとヘモクロモーゲンを[[結晶化]]させる検査法<ref name="木村36">[[#木村82|木村 (1982)]] 36-39頁</ref>。ヘミンは[[1853年]]にドイツのルートヴィヒ・タイヒマンによって、ヘモクロモーゲンは[[1890年]]にドイツの[[フェリクス・ホッペ＝ザイラー]]と日本の[[荒木寅三郎]]によって報告された<ref name="木村36"/>。}}陰性 || ||rowspan="2" style="white-space:nowrap" | 靴紐：O型<br />（[[凝集反応]]自体が<br />起こらなかったため） ||style="background-color:#ddf" rowspan="2" | 血痕を証明し得ず
|-
|colspan="2" | 抗人[[ヘモグロビン|血色素]]沈降素反応{{Efn|ヒト由来のヘモグロビンに対して反応するため、血痕本試験と人血鑑定を同時に行うことができる検査法<ref>[[#木村82|木村 (1982)]] 48-49頁</ref>。[[1922年]]（[[大正]]11年）に[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京帝国大学医学部]]法医学教室教授の[[三田定則]]によって報告され、1950年代から実用化された<ref>[[#木村82|木村 (1982)]] 35頁、48頁</ref>。}}[[偽陽性]]<br />（補充報告書で言及）
|-
! {{Anchors|松木・鑑識靴鑑定}}松木明・<br />市警鑑識<ref name="吉岡144"/>
| 10月17日<br />-18日<ref group="注釈" name="靴鑑定日" /> || （[[#松木・鑑識鑑定図|上図参照]]） || style="background-color:#fdd" | 左靴の斑痕ア以外、<br />右靴の斑痕エ以外：陽性 || || style="background-color:#fdd" | 左靴の斑痕う・ウ、<br />右靴の斑痕ウ：陽性 || style="background-color:#fdd" | 左靴の斑痕ウ：B型 || style="background-color:#fdd;white-space:nowrap" |
* 左靴の斑痕イ・あ・い、<br />右靴の斑痕ア・イ・オ<br />・あ-う：血液
* 左靴の斑痕う、<br />右靴の斑痕ウ：人血
* 左靴の斑痕ウ：B型の人血
|-
! {{Anchors|古畑靴鑑定}}古畑種基<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 210頁、218頁、220頁</ref>
| 1950年<br />7月6日-9月20日 || 斑痕なし ||style="background-color:#ddf" | ルミノール反応陰性 || || || ||style="background-color:#ddf" | 人血痕の附着を認め得ない
|}

{| class="wikitable"  style="text-align:center"
|+ 白シャツに対する鑑定一覧
! 鑑定人 !! 鑑定日 !! 肉眼的検査 !! 血液予備試験 !! 血液本試験 !! 人血鑑定 !! 血液型鑑定 !! 結論
|-
! {{Anchors|引田シャツ鑑定}}引田一雄<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 120頁</ref>
| 1949年8月24日 || 左肩から左乳にかけて<br/ >褪灰暗色の2、3の汚点<ref>[[#木村82|木村 (1982)]] 158頁</ref> ||colspan="5" | （物件が引き揚げられたため鑑定書を作成できず）
|-
!rowspan="2" style="white-space:nowrap" | {{Anchors|科捜研シャツ鑑定}}国警科捜研<ref name="吉岡138"/>
|rowspan="2" | 9月1日-10日 ||rowspan="2" | 褐色汚斑<br />（図示はないが、松木・鑑識鑑定書の<br />「斑痕チ」が検査部位）<ref name="田中28">[[#田中|田中 (2002)]] 28-29頁</ref> || style="background-color:#fdd" rowspan="2" | ルミノール反応で<br />軽度の蛍光 || style="background-color:#fdd;white-space:nowrap" | ヘミン結晶反応および<br />ヘモクロモーゲン<br />結晶反応陽性 || || style="background-color:#fdd" rowspan="2" | B型 || style="background-color:#fdd" rowspan="2" | B型の血液
|-
|colspan="2" | 抗人血色素沈降素反応偽陽性<br />（補充報告書で言及）
|-
! {{Anchors|松木・鑑識シャツ鑑定}}松木明・<br />市警鑑識<ref name="木村821308">[[#木村82|木村 (1982)]] 130-138頁</ref>
| style="white-space:nowrap" | 10月15日<br />（鑑定嘱託日）{{Efn|name="シャツ鑑定日"|ただし、白シャツについて一審で松木が「嘱託を受けた15日から三木へ引き渡す19日まで手元に置き続けていた」と証言しているのに対し<ref>[[#田中79|田中 (1979)]] 49頁</ref>、三木は「17日のうちに市警へ返却した」と述べており、互いに矛盾がみられる<ref name="田中38"/>。}} || （[[#松木・鑑識鑑定図|上図参照]]）<br />（色調の記載なし） || style="background-color:#fdd;white-space:nowrap" | 斑痕イ：<br />ピラミドン反応陽性 || ||style="background-color:#fdd;white-space:nowrap" | 斑痕イ：抗人血家兎<br />免疫血清反応陽性 || style="background-color:PaleVioletRed;white-space:nowrap" |
* 斑痕イ：BQ型
* 斑痕ロ：Q型{{Efn|一審で松木は「嘱託内容になかったので鑑定書には記載しなかったがM型の反応も得た」と証言している<ref name="吉岡147"/>。また、後の国家賠償請求訴訟一審では、B型の反応が得られたのは1949年8月23日頃のことであると証言している<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 47頁</ref>。}}
| style="background-color:PaleVioletRed;white-space:nowrap" |
* 斑痕イ：BQ型の人血
* 斑痕ロ：Q型の人血
* 斑痕ハ・ニ：血液
|-
! {{Anchors|三木シャツ鑑定}}三木敏行<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 38頁、204-207頁</ref>
| 10月17日<ref group="注釈" name="シャツ鑑定日" /> || style="white-space:nowrap" | 左襟左部に[[エンドウ]]大の赤褐色の斑痕<br />（図示はないが、後の再鑑定人らは<br />松木・鑑識鑑定書の「斑痕ホ」と推定<ref name="木村143"/>） ||colspan="3" | （嘱託内容にないため省略） || style="background-color:PaleVioletRed" | Q型 || style="background-color:PaleVioletRed" | Q型の血液
|-
! {{Anchors|古畑シャツ鑑定}}古畑種基<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 216頁、220頁</ref>
| 1950年<br />7月6日-9月20日 || ごく小さな数個の赤褐色の斑点<ref name="古畑124">[[#古畑58|古畑 (1958)]] 124-125頁</ref>{{Efn|東北大学法学部教授の[[田中輝和 (法学者)|田中輝和]]は、松木・鑑識鑑定書の「斑痕ヘ・ト」を検査部位と推定している<ref name="田中38"/>。しかし田中が青森地検で閲覧した古畑鑑定書の付図には、その2点の他に「斑痕イ・ハ」に「比較的」近い部分と、さらに全く新しい部分に2点ほど斑痕が図示されていたという<ref name="田中38"/>。}} || colspan="3" | （試料不足のため省略） || style="background-color:#fdd" | ME型 || style="background-color:PaleVioletRed" | BMQE型の人血
|}

==== 科捜研鑑定に対する指摘 ====
船尾と木村はともに鑑定書に肉眼的検査の記載がないことを指摘して、犯罪事実の立証にかかわる重大な鑑定において鑑定人には常識が欠けていると批判した<ref name="田中28"/>。また、血液予備試験と血液本試験を行って陽性反応が出た以上、斑痕を血液と見なすことに異論はないが、人血鑑定が行われていないため鑑定としては不適切である、とも指摘した（科捜研が人血鑑定について言及した補充報告書は、証拠として提出されていなかったとみられる）<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 30頁、39-40頁、48頁</ref>。加えて木村は、「B型の血液」という結論の表現自体は誤りではないが、より誤解を招かないためにも「人血であるかどうかは分からない」と鑑定書に記載すべきであったと後に批判している<ref>[[#木村82|木村 (1982)]] 129頁</ref>。

==== 松木・鑑識鑑定に対する指摘 ====
船尾は、松木らが鑑定に使用した試料量はQ式血液型の[[検出限界]]を下回っていたはずと指摘し、加えてQ式血液型自体についても、三木が[[1967年]]（昭和42年）に発表した論説で「検査成績の[[再現性]]に難点があり、証拠として取上げるのは現在のところ無理であろう<ref name="田中154">[[#田中|田中 (2002)]] 154-155頁</ref>」と述べていると指摘した<ref name="井上77127">[[#井上77|井上 (1977)]] 127頁</ref>。

一方木村は、松木のかかわった鑑定がすべて血液本試験を欠いていることを指摘し、松木には予備試験で陽性反応が出ることと血液であることの区別がついていないと批判した<ref name="田中33"/>。さらに、人血鑑定に用いられた抗人血家兎免疫血清反応（抗人血清沈降素反応）も、本試験を欠いた利用ではヒト由来の[[タンパク]]に反応した可能性を排除できず、無意味であると指摘した<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 41頁</ref>。加えて松木・鑑識鑑定書には「斑痕ハ」について「血液反応を示した」「血液反応を行なわなかった」という相反する記述が同居しており全く意味不明である、と批判した<ref name="田中33"/>。さらに後には、予備試験すら行われなかった「斑痕イ」以外の斑痕が人血や血液と結論されている点についても批判した<ref>[[#木村82|木村 (1982)]] 137頁</ref>。

一方その頃、松木は仙台高検に対し覚書きを提出し、白シャツについての鑑定はすべて共同鑑定人の市警鑑識官が行ったものであり自分は清書と捺印しかしていない、と弁明した<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 154-155頁</ref>。これに対し市警鑑識官は、自分こそ原稿の清書しか行っていないのであり、鑑定は松木によって行われたのだと反論している<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 158頁</ref>。

==== 三木鑑定に対する指摘 ====
船尾は、三木が鑑定に使用した試料量も松木・鑑識鑑定と同様にQ式血液型の検出限界を下回っていたはずと指摘した<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 56頁</ref>。検察側証人として出廷した三木はこれに対し、Q型[[抗原]]は反応に個人差が大きいため検出限界は一概に定められないと反論した<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 57頁</ref>。

反対に木村は、基本的には三木鑑定は適正妥当であると弁護し、Q式血液型の検出限界についてもABO式のそれと大差ないので問題にはならない、と後に語った<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 34頁、58頁</ref>。ただしさらに後の著書では、三木鑑定そのものは全く正しい妥当な鑑定であるが、市警による嘱託内容自体が「付着せる人血痕の血液型」と記載されているように科捜研鑑定と松木・鑑識鑑定の結果を前提としているので、その両者が適正な鑑定でない限りは三木鑑定の結論の正確性は保証されない、と述べている<ref name="木村143">[[#木村82|木村 (1982)]] 143-144頁</ref>。また、人血であることを前提に鑑定を行うのであれば、科捜研鑑定でも松木・鑑識鑑定でも鑑定されていない「斑痕ホ」を試料に選ぶべきではなかったとも批判している<ref name="木村143"/>。

==== 古畑鑑定に対する指摘 ====
船尾は、MN式血液型の検出可能期間は先の三木論説にあるように最長半年程度であり<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 59頁</ref>、事件から1年以上が経過した時点での古畑鑑定で正確な判定は行い得ず、E式血液型に関しても試料量は検出限界を下回っていたはずと指摘した<ref name="井上77127"/>。

また、古畑鑑定は試料の不足を理由に人血鑑定以前の段階をすべて省略している（[[#古畑シャツ鑑定|上表参照]]）。これについて古畑は、Q型抗原とE型抗原がヒト[[血球]]以外から発見されていない以上、それらに凝集素が反応を起こした、すなわちQ型とE型と判定された時点で人血であることは確定されるので、鑑定の手続きに問題はないとした<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 215頁</ref>。これについて木村は、抗E凝集素がヒト血球の他にもヒト・ヤギ・ヒツジ・イヌの唾液などに反応する時点でE式血液型についての古畑の主張する前提は崩れており、Q型抗原についてもそれがヒト血球以外から発見されていないのはあくまで現時点での研究成果に過ぎない、と指摘した<ref name="田中36">[[#田中|田中 (2002)]] 36-37頁</ref>。また、古畑は鑑定の結論部分で自らの行ったMN式とE式の鑑定に以前の鑑定結果であるABO式とQ式の鑑定結果を合成しているが、その以前の鑑定結果の入手元が不明であるとも指摘した<ref name="田中36"/>。

これらの指摘に対し、1971年の暮れから[[脳卒中]]により入院生活を強いられていた古畑当人に代わって、鑑定で助手を務めた医師が出廷し証言を行った<ref name="佐久間130">[[#佐久間|佐久間 (1991)]] 130頁</ref>。それによれば、古畑鑑定を実際に行い、鑑定書を作成したのは助手であり、古畑はそれを清書する程度しか行っていなかったという<ref name="佐久間130"/>。

===== Q式・E式血液型のその後 =====
[[1934年]]（昭和9年）にQ式血液型を発見した今村昌一と、翌年にE式血液型を発見した杉下尚治は、ともに[[金沢医科大学 (旧制)|金沢医科大学]]時代の古畑の門下生である<ref name="木村108"/>。

Q式血液型はブタの[[血清]]から、E式血液型はウナギの血清からそれぞれ作成する抗原で判定する血液型である<ref name="木村108">[[#木村82|木村 (1982)]] 108-111頁</ref>。しかしQ式血液型は日本国外では全く存在を認められず、[[1927年]]に[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]の[[カール・ラントシュタイナー]]により発見されていた{{仮リンク|P式血液型|en|P antigen system}}と同一のものであるとみなされた<ref name="木村108"/>。やがて[[1965年]]（昭和40年）頃から日本の法医学界にも同様の認識が広まり、さらに抗原の由来によっては判定結果にぶれが生じるという欠陥もあったため<ref name="木村108"/>、やがて法医学の教科書から姿を消した<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 147頁、150頁</ref>。E式血液型に至ってはそのような独立形質自体が存在しなかったことが判明し、Q式血液型と同様にその存在を否定された<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 147頁</ref>。

=== 請求棄却と異議申立て ===
再審請求からおよそ3年が経過した[[1974年]]（昭和49年）6月、弁護側は高裁に最終意見書を提出した<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 129頁</ref>。その中で弁護側は、現場検証でXが未知の井戸の存在を指摘したことは[[秘密の暴露]]にあたると主張し、Xの犯人性を強調した<ref name="井上77129">[[#井上77|井上 (1977)]] 130-131頁</ref>。さらに、過去の裁判での[[事実認定#刑事訴訟|事実認定]]の変遷、那須の名前入りの不自然な実況見分調書（[[#実況見分|注参照]]）、逮捕後の長期拘束、2人の再鑑定人の主張、そして那須が仮釈放すら辞退して25年間無実を主張していることを補強材料とした<ref name="井上77129"/>。その翌月に提出された検察側最終意見書では、Xの告白が確定記録と一致したとしてもその信憑性は高まらない、とされた<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 132頁</ref>。

約半年後の12月13日、仙台高裁刑事第一部は再審請求を棄却した<ref name="井上77139">[[#井上77|井上 (1977)]] 139-140頁</ref>。那須は落胆を隠さずに「もう日本の司法は何も信用できない」と繰り返したが、250ページに及ぶ決定理由書は、南出も認めるほどの綿密な審理を伝えていた<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 141頁</ref>。

棄却決定はその理由の中で、Xの告白の特に廊下の幅についての部分が「裁判記録や第三者では知り得ないことで信憑性がきわめて高い」としたが、Xが事件当時現場近くに住んでいたことを考えれば秘密の暴露とは言い切れない、とした<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 142頁</ref>。ズック靴の血痕については「付着を証明するものは皆無」とし、那須の「変態的性格」についてもはっきりと否定された<ref name="井上77142">[[#井上77|井上 (1977)]] 143-144頁</ref>。しかし白シャツの血痕鑑定については、白シャツにSのものと完全に一致する血液が付着しており、那須の側はそれに対する[[反証 (法律)|反証]]を持っていない、という古畑鑑定を全面的に受け入れた判断となった<ref>[[#田中80|田中 (1980)]] 24-25頁</ref>。結局、結論としては「有罪判決は疑わしいが、無罪を証明する明白性を欠く」というものに終わった<ref name="井上77142"/>。主文の最後で、決定は通常3日間である[[異議#訴訟法上|異議申立て]]期限をさらに3日間延長した<ref name="後藤203">[[#後藤|後藤 (1979)]] 203-205頁</ref>。

これを受けて12月19日、弁護側は仙台高裁刑事第二部へ異議申立てを行った<ref name="井上162">[[#井上11|井上 (2011)]] 162-163頁</ref>。だが老齢の南出は「日本の再審制度は無きに等しい」と嘆き、悲嘆のあまり新たな弁護を引き受けなくなった<ref name="井上162"/>。

==== 白鳥決定 ====
しかしその半年後、第三の事件に対する判決が再審の門を開いた<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 149頁</ref>。[[1975年]]（昭和50年）5月20日、[[岸上康夫]]の指揮する最高裁第一小法廷は[[白鳥事件]]の再審請求を棄却したが、その際に再審開始に要する新証拠の明白性について「確定判決における事実認定につき[[合理的な疑い]]を生ぜしめれば足りる」「『[[疑わしきは罰せず|疑わしいときは被告人の利益に]]』という刑事裁判における鉄則が適用される」として、その基準を大幅に引き下げる判断を下した<ref name="後藤203"/>。世に言う「[[白鳥決定]]」である<ref>{{Cite 判例検索システム|法廷名=最高裁判所第一小法廷|裁判形式=決定|事件番号=昭和46（し）67|事件名=再審請求棄却決定に対する異議申立の棄却決定に対する特別抗告事件|裁判年月日=昭和50年5月20日|判例集=[[刑集#最高裁判所刑事判例集|刑集]]第29巻第5号177頁|判示事項=|裁判要旨=|url=https://web.archive.org/web/20111218084328/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319115826868022.pdf}}</ref>{{Efn|なお、弘前事件の一審で無罪判決を下した裁判長の豊川は、1960年の[[札幌高裁]]での白鳥事件控訴審では、同じく裁判長として被告人たちに有罪判決を下している<ref>{{Cite 判例検索システム|裁判所=札幌高等裁判所|事件番号=昭和32（う）229|事件名=殺人、殺人幇助等被告事件|裁判年月日=昭和35年5月31日|判例集=[[判時]]第231号4頁|判示事項=|裁判要旨=|url=}}</ref>。}}。

これを受けて10月14日、弁護側は仙台高裁に、白鳥決定を踏襲し「疑わしきは罰せず」の原則をこの再審請求にも適用するよう補充書を提出した<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 166頁</ref>。古畑鑑定を完全に覆せずとも、Xの告白でそれを切り崩すことで再審を開始させるとの方針を弁護側は固めた<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 153頁</ref>。そして年が明けた[[1976年]]（昭和51年）1月29日、'''三浦克巳'''裁判長が指揮する高裁刑事第二部は異議申立てについて事実調べの開始を決定した<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 163頁</ref>。

同年7月13日、高裁刑事第二部は原決定を取消し再審を開始すると決定した<ref name="開始決定">{{Cite 判例検索システム|裁判所=仙台高等裁判所|裁判形式=決定|事件番号=昭和49（け）9|事件名=再審請求事件|裁判年月日=昭和51年7月13日|判例集=高刑集第29巻第3号323頁|判示事項=|裁判要旨=|url=https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/985/023985_hanrei.pdf}}</ref>。

== 再審 ==
4万字を超す再審開始決定の理由では、Xの告白は客観的証拠とも符合し信憑性が高く、また白シャツの斑痕が鑑定を経るにつれて変化していることへの説明がない点などが指摘され、「疑わしきは罰せず」の原則を適用すべき事案であるとの説明がなされた<ref name="開始決定"/>。この決定を下した三浦は、17年前にXに逆転無罪判決を言い渡した仙台高裁秋田支部裁判長その人であった<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 263頁</ref>（[[#三浦|上記参照]]）。検察側は[[特別抗告]]を断念し、再審公判は9月28日に開始された<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 176頁</ref>。

検察側は、Xの告白は虚偽であり、再鑑定の結果も弁護側に都合のいい部分の切り貼りに過ぎないと主張した<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 178頁</ref>。一方で、検察側は1977年1月に、ズック靴に関する松木の単独鑑定書を事件から28年経って初めて法廷に開示している<ref name="井上182"/>（[[#松木第一鑑定|上記参照]]）。対する弁護側は一日も早い控訴の棄却を求め、検察側に自発的に控訴を取り下げることも求めた<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 179頁</ref>。那須も裁判所に対して「無実の者が苦しむようなことは二度と起こさないでほしい」と証言した<ref name="井上182"/>。また、法廷に立ったXは「一日も早く那須さんを無罪にしてやって欲しい」と語った<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 181頁</ref>。この時、那須とXは25年ぶりに一度だけ顔を合わせ、その後は二度と出会わなかった<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 294頁</ref>。

===再審判決===
月一回のスピード審理による4回の公判の後<ref>[[#井上77|井上 (1977)]] 195頁</ref>、2月15日に再審判決は言い渡された<ref name="再審判決">{{Cite 判例検索システム|裁判所=仙台高等裁判所|事件番号=昭和46（お）1|事件名=再審請求事件|裁判年月日=昭和52年2月15日|判例集=高刑集第30巻第1号28頁|判示事項=|裁判要旨=|url=https://web.archive.org/web/20140106200018/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/BF55C0393162878749256CFA000607E1.pdf}}</ref>。
{{quotation|主文<ref name="再審判決"/>

原判決中殺人の点に関する本件控訴を棄却する。<br />仙台高等裁判所が昭和二七年五月三一日被告人に対し言渡した確定判決中銃砲等所持禁止令違反の罪につき、被告人を罰金五、〇〇〇円に処する。<br />原審[[未決勾留]]日数中その一日を金一、〇〇〇円に換算して右罰金額に満つるまでの分をその刑に算入する。}}

判決では、ズック靴に対する松木鑑定は「矛盾しかつ杜撰な点が多く認められる」、丸井による精神鑑定も「個々の資料に対する検討が不徹底で、全般的に独自の推理、偏見、独断が目立ち、鑑定結果に真犯人まで断定するに至っては、鑑定の科学的領域を逸脱したもの」として、いずれも退けられた<ref name="再審判決"/>。那須宅周辺の血液も事件との結び付きが否定され、Sの母による目撃証言も「憎しみが強く働き先入観に大きく左右された疑いが極めて濃厚」とされた<ref name="再審判決"/>。

白シャツの斑痕については、
{{quotation|先づ前記古畑鑑定によれば、本件白シャツに附着していた血痕は、前記畳表に流出した被害者の血液と同じ「赤褐色」を呈した血痕であったというのであるから、被告人は被害者の返り血を浴びた本件白シャツを、逮捕時までそのままの状態で着用していたことになるのである。しかも被告人はそれを家宅捜索にきた警察官の面前で何ら悪びれることなく脱ぎ捨て、他の衣類と着替えたうえ警察署に同行していることは前記のとおりである。殺人を犯した犯人がこのような行動に及ぶということは全く考えられない、有りうべからざる行動である。<br />
{{Interp|中略|和文=1}}<br />
本件白シャツに認められる前記B、C、F、I、J、Kの六点の斑痕{{Efn|松木・鑑識鑑定書の「斑痕イ・ロ・ホ・ヘ・ト」とこれに未記載の襟紐附着の斑痕<ref name="再審判決"/>。}}の状況は相互に極めて不規則、不揃いで一見して「噴出」または「迸出」した血液が附着したとは到底考えられない不自然な状況にあることが認められる{{Interp|中略|和文=1}}。<br />
{{Interp|中略|和文=1}}<br />
これを要するに昭和二四年一〇月一九日付松木・{{Interp|鑑識|和文=1}}鑑定ならびに三木鑑定および昭和二五年九月二〇日付古畑鑑定の結果本件白シャツ附着の血痕が被害者の血液型と同じB・M・Q・E型であったという結論を導き出した当時の斑痕の色合いと、これを押収した昭和二四年八月二二日当時の斑痕の色合いとの間に色合いの相違が瀝然としていることは疑いなく、この点は大きな疑問としなければならない。<br />
{{Interp|中略|和文=1}}<br />
このようにみてくると、本件白シャツにはこれが押収された当時には、もともと血痕は附着していなかったのではないかという推察が可能となるのであり、そう推察することによって始めて{{sic}}前記 (1) ないし (3) の疑問点即ち被告人が右シャツを平然と着用していたことも疑問でなくなり、「噴出」または「迸出」血液の附着が不自然であるという疑問点も解消し、色合いの相違という重大な疑問も氷解する。<br />要するに血痕の附着を前提とする限り叙上の各疑問点を解明する必要があり、この解明ができない以上疑問を止めたままこれを事実認定の証拠に供することは許されず、また確率の適用もその前提を欠き全く無意味となるのであるから、結局本件白シャツ附着の血痕をもって被告人の本件犯罪を証明する証拠に供することはできないといわなければならない。}}
としてこれを否定し<ref name="再審判決"/>、「押収された当時には、もともと血痕は附着していなかったのではないか」と述べてその捏造を強く示唆した<ref name="井上11190">[[#井上11|井上 (2011)]] 190頁</ref>{{Efn|ただし血痕が偽造されたという疑惑に対しては、工作が行われたとするならば古畑鑑定の時点で鑑定を省略せねばならないほど試料が消耗していたのはなぜなのか、と田中が疑問を呈しており<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 45頁</ref>、元[[最高裁判所調査官]]の[[渡部保夫]]も、白シャツに付着していたのは醤油の染みか獣血、あるいは那須自身の血液であろう、として捏造説に否定的である<ref>[[#渡部|渡部 (2002)]] 179頁</ref>。}}。

那須の容疑については「本件一切の証拠を検討しても本件が被告人の犯行であることを認めるに足る証拠は何一つ存在しない」と結論し、Xの告白についても
{{quotation|検察官は{{Interp|X|和文=1}}の供述の信憑性に深い疑惑の念を抱いているが、かりに{{Interp|X|和文=1}}が全く本件にかかわりにない人間であるとすれば、その供述するところはすべて虚偽架空の事実を供述していることとなるのであり、それにしてはこれまで述べてきたようにかくまでに微細な点に至るまで客観的証拠と合致するような供述をすることは到底できるものではない。{{Interp|中略|和文=1}}{{Interp|X|和文=1}}の供述には全体として真実性を認めるに十分であり、告白の経緯についてもその真実性を首肯することができるので、当裁判所は以上の事実に前記第一において述べた本件を被告人の犯行と認めるに足る証拠がない事実ならびに{{Interp|X|和文=1}}は真犯人を名乗りでて以来棄却審、異議審ならびに当審に至るまで一貫して自分が真犯人である旨不動の供述をしている事実に照らし、本件の真犯人は{{Interp|X|和文=1}}であると断定する。}}
とされた<ref name="再審判決"/>。検察側は期限前日の28日に上告を断念し、判決は確定した<ref name="井上11190"/>。

=== 無罪判決後 ===
無罪が確定した日、那須は自宅の玄関に、事件以来掛けることのできなかった表札を再び掲げた<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 192頁</ref>。8月30日には[[刑事補償]]として1399万6800円（4378日の拘禁日数から換算すると1日当たりおよそ3200円<ref name="井上194">[[#井上11|井上 (2011)]] 194頁</ref>）を受け取った<ref>[[#佐藤|佐藤 (1982)]] 185頁</ref>。この刑事補償は、亡父の墓代を除いたすべてが再審費用と後の国賠訴訟費用に充てられた<ref>[[#朝日|朝日新聞社 (1984)]] 76頁</ref>。一方のXは判決後に変心し、「もう那須の顔を見たくない。無罪判決をもらっても、俺にはなんのあいさつもない」と苛立ちを露わにした<ref name="井上11191">[[#井上11|井上 (2011)]] 191頁</ref>。松永は「判決通り那須さんが無実なら、家族も含めて本当にお気の毒に思う」と語り、元市警捜査課長は、当時自身の潔白を証明できなかった那須を非難した<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 151頁、292頁</ref>。

Xの存在をいち早く察知し、5年9か月にわたる追跡取材で事件の再審に貢献したことを讃えられ、井上は日本弁護士連合会から報道関係者として初めて[[感謝状]]を贈られた<ref>{{Cite news |和書|title= 『那須さん無罪』井上本社記者に 日弁連、異例の感謝状 - 再審のカベ、真犯人で破る|newspaper= 読売新聞|date= 1977-03-02|page= 22}}</ref>。その後も井上は[[日本新聞協会賞]]<ref>{{Cite news |和書|title= 新聞協会賞に井上本紙記者 - 人権尊重を貫いた那須さん事件報道|newspaper= 読売新聞|date= 1977-09-02|page= 22}}</ref> や[[菊池寛賞]]<ref>{{Cite news |和書|title= 井上記者に菊池寛賞 -『那須さん無実』また栄誉|newspaper= 読売新聞|date= 1977-10-07|page= 22}}</ref> を相次いで受賞し、取材活動のエピソードは[[1992年]]（[[平成]]4年）にドラマ化もされている<ref>{{Cite news |和書|title= 試写室 えん罪の恐ろしさ訴える - [[実録犯罪史シリーズ]]『弘前大学教授夫人殺し 名乗り出た真犯人』（フジ＝後 9.02）|newspaper= 読売新聞（首都圏版）|date= 1992-05-29|page= 32}}</ref>{{Efn|これとは別に、[[#鎌田|ルポライターの鎌田慧の著作]]を原作としたドラマも[[1979年]]（昭和54年）に放映されている<ref>{{Cite news |和書|title= [[土曜ワイド劇場]]『私は殺していない』|newspaper= 読売新聞|date= 1979-03-31|page= 24}}</ref>。また、[[1991年]]（平成3年）には[[RABラジオ]]でドキュメンタリー番組『冤罪への証言〜弘前大学教授夫人殺人事件をふりかえる』が放映され、同年度の[[ギャラクシー賞]]ラジオ部門大賞<ref>[[#ぎゃらく|『月刊ぎゃらく』2004年3月号増刊]] 112頁</ref> および[[日本民間放送連盟賞]]ラジオ報道番組部門優秀賞を獲得している<ref>[[#後藤2|後藤 (1991)]] 7-8頁</ref>。}}。

かつて古畑が那須の有罪を自身の功績として喧伝し、再審までに24[[版と刷#刷|刷]]を重ねていた著書『法医学の話』について、ほどなく[[版元]]の[[岩波書店]]は「文脈に疑問がある」として出品を停止、[[絶版]]とした<ref>{{Cite news |和書|title= 法医学の話“絶版” - 岩波新書“古畑鑑定”の著書 初版から24刷、無罪の波紋|newspaper= 読売新聞|date= 1977-03-01|page= 22}}</ref>。弘前事件と同じく古畑の鑑定が有罪の証拠とされ、被告人らに死刑判決が下っていた[[財田川事件]]、[[島田事件]]、松山事件についても、後に3件すべてが再審で無罪となった<ref>[[#鎌田|鎌田 (2006)]] 137-138頁</ref>。

== 国家賠償請求訴訟 ==
{{最高裁判例
|事件名=国家賠償請求、仮執行の原状回復命令申立事件
|事件番号=昭和62（オ）667
|裁判年月日=1990年7月20日
|判例集=民集第44巻第5号938頁
|裁判要旨=
# 再審により無罪判決が確定した場合であっても、元の裁判において裁判官の行為に[[国家賠償法]]第1条第1項が定める違法を認め、国の損害賠償責任を認めるためには、その裁判官が違法または不当な目的で裁判をしたなど、職権をその趣旨に明らかに背いて行使したことが認められなければならない。
# 再審により無罪判決が確定した場合であっても、[[公訴]]の提起と追行の際に各証拠資料を総合してなお合理的な判断過程により有罪の嫌疑があった場合は、検察官による公訴の提起と追行は、国家賠償法第1条第1項が定める違法行為に当たらない。
|法廷名=第二小法廷
|裁判長=[[香川保一]]
|陪席裁判官=[[藤島昭]]、[[奧野久之]]、[[中島敏次郎]]
|多数意見=全員一致
|意見=なし
|反対意見=なし
|参照法条=[[b:国家賠償法第1条|国家賠償法第1条第1項]]
|url=https://web.archive.org/web/20140106195713/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319121134532081.pdf
}}
10月22日、那須は国家賠償を求めて青森地裁弘前支部へ提訴を行った<ref name="田中7945">[[#田中79|田中 (1979)]] 45頁</ref>。再審と同じく南出を中心とした[[原告]]側が請求したのは、那須当人と9人の親族、そして亡父についての総額9759万5900円の賠償であった<ref name="田中7945"/>。

那須側が主張した[[日本の公務員|公務員]]の不法行為は、まず捜査機関が物証を捏造した上で虚偽の実況見分調書と鑑定書を作成し、次に検察が違法な見込み逮捕、勾留を行い、また物証の捏造を知りながらそれを無視して一部の資料を隠蔽し、そして高裁と最高裁が一審の無罪を深く検討しなかったことにより職務上の[[注意義務]]を怠った、というものであった<ref>[[#佐藤|佐藤 (1982)]] 177-182頁</ref>。

物証の捏造を強く主張する那須側に対して、[[被告]]となった国側は、松木・鑑識鑑定によるズック靴と白シャツの鑑定結果には「何ら疑義を差しはさむ余地は存しない」とその正確性を改めて強調した<ref name="田中7947">[[#田中79|田中 (1979)]] 47-48頁</ref>。のみならず、白シャツについての松木・鑑識鑑定が実際に行われたのは1949年8月23日頃のことで、その後白シャツは松木のもとから直接科捜研へ引き渡されたのであり、引田が白シャツを目にしたというのは虚偽である、という全く新たな主張も展開した<ref name="田中7947"/>。

=== 部分勝訴 ===
事件の冤罪性自体を否定する国側に対し、[[1981年]]（昭和56年）4月27日に裁判長の矢崎博一が申し渡した判決では、ズック靴と白シャツについての鑑定の信頼性は完全に否定され、那須を犯人とみるべき証拠が何一つ存在しない状況で起訴に踏み切った一審検察官には注意義務違反の違法があったと認定された<ref>[[#佐藤|佐藤 (1982)]] 202頁、209頁、222-223頁</ref>。戦後に発生した冤罪事件で検察官に[[過失責任]]が認められたのは、これが初のケースである<ref name="井上194"/>。しかし捜査機関の不法行為については認められず、控訴審裁判所の判断についても[[自由心証主義]]の範囲内にあるとして違法性の訴えは退けられた<ref>[[#佐藤|佐藤 (1982)]] 229-230頁</ref>。親族への賠償請求についても、那須の無罪によって精神的苦痛はすでに慰謝されているとされた<ref>[[#佐藤|佐藤 (1982)]] 238頁</ref>。

最終的に那須当人にのみ認められた賠償の額は、拘禁中の[[逸失利益]]272万9201円に精神的苦痛を慰謝するための2000万円と弁護費用の87万円を加え、そこから那須側によって控除が求められていた刑事補償額の1399万6800円{{Efn|那須側がこの控除を求めた理由については、裁判で取り戻すことのできない損害がある、との思いを強調する狙いがあったと推察されている<ref name="西野38">[[#西野|西野 (1993)]] 38頁</ref>。}}を差し引いた960万2401円となった<ref>[[#佐藤|佐藤 (1982)]] 231-237頁</ref>。

=== 逆転敗訴 ===
国賠訴訟一審は那須側の部分勝訴となったが、那須側は裁判所の過失や親族に対する賠償が認められなかった点、そして[[物価]]の変化を考慮しない賠償金の算定を不服として、国側は判決そのものを不服としてともに控訴した<ref name="国賠二審">{{Cite 判例検索システム|裁判所=仙台高等裁判所|事件番号=昭和56（ネ）202|事件名=国家賠償請求、仮執行の原状回復命令申立事件|裁判年月日=昭和61年11月28日|判例集=高民集第39巻第4号83頁|判示事項=|裁判要旨=|url=https://web.archive.org/web/20140106195026/http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/AB94FA3C83A15BCF49256CFA000607B5.pdf}}</ref>。だが、[[1986年]]（昭和61年）11月28日に仙台高裁裁判長の[[輪湖公寛]]は、言い渡した判決で那須側の主張をすべて退け、一審で認められていた検察官の過失責任も否定した<ref name="国賠二審"/>。裁判官と検察官が故意に職権を逸脱したとは認められず、むしろ有罪判決の確定を避けられなかった弁護側に責があったとする、逆転全面[[敗訴]]であった<ref name="国賠二審"/>。

那須側は最高裁へ上告したが、[[香川保一]]が指揮する第二小法廷は[[1990年]]（平成2年）7月20日に上告を棄却した。この判決は、裁判官の不法行為については、控訴審と同様に[[1982年]]（昭和57年）の[[民事訴訟|民事]][[判例]]<ref>{{Cite 判例検索システム|法廷名=最高裁判所第二小法廷|事件番号=昭和53（オ）69|事件名=損害賠償請求事件|裁判年月日=昭和57年3月12日|判例集=[[民集#最高裁判所民事判例集|民集]]第36巻第3号329頁|判示事項=|裁判要旨=|url=https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/239/054239_hanrei.pdf}}</ref> をひいてそれを否定するものであるが、これは1982年判例が刑事事件および再審無罪事件にも適用される、とした点で新たな最高裁判断となっている<ref name="新谷178">[[#新谷|新谷 (1991)]] 178頁</ref>。しかしこの判断に対しては、1982年判例が控訴せず一審で確定した民事事件であるのに対し、弘前事件が再審により原判決が無効とされた刑事事件である、という相違点を無視して判例を踏襲しているとの批判がある<ref name="西野38"/><ref name="阿部70">[[#阿部|阿部 (1992)]] 70頁</ref>{{Efn|
{{quotation|上告理由では、簡単ではあるが、再審無罪の場合は{{Interp|原判決が確定した場合|和文=1}}の射程範囲外で別だとか、もとの有罪判決の事実認定の誤りの主張がなされている。これに答えずして、裁判に理由を付すという要請（[[b:刑事訴訟法第44条|刑訴四四条]]）を満たしたことになるのであろうか。最高裁はこうした問答無用型の判決で庶民の不満を切って捨てるようなことで、任務を果たしたことになるのであろうか。[[行政行為|行政処分]]にこの程度の理由しかつけなければ取り消される（[https://web.archive.org/web/20150714113700/http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/760/053760_hanrei.pdf 最判昭和三七年・一二・二六民集一六巻一二号二五五七頁]）し、学生がこんな答案を書けば不可なのである。|[[阿部泰隆]]（[[神戸大学]]法学部教授）<ref name="阿部70"/>}}
{{quotation|本判決はこれを素直に読めば、裁判官に認定上の重過失がある場合でも当事者（刑事訴訟なら被告人）が負担せよと言っていることになる。また私の問題意識によれば、このように誤った裁判によって生じた損害のうち、[[上訴]]では取り戻せないような種類の損害はどうなるのかということになるが、本判決では同じく当事者、被告人が不運と諦めよということになる。到底正当な見解とは思われないし、また裁判官に過失がある場合には裁判官（国）が負担せよという[[職務行為基準説]]の簡明さにもしかないことは明らかである。|西野喜一（[[新潟大学]]法学部教授）<ref>[[#西野|西野 (1993)]] 44頁</ref>}}}}。検察官の不法行為については、1982年判例が検察官の責任に対しても適用されるとしていた控訴審の判断は退けられた。しかし、事実認定においては、最高裁判決は1982年判例に基いた控訴審のそれを判断の基礎として検察官を免責している<ref name="新谷178"/>。

有罪を支えた証拠が多大の疑問を断言されているこの事件においてすら、国家賠償責任を認めていないこの判決は、冤罪被害者の救済と冤罪防止の観点からは極めて厳しい判例の一つとなった<ref name="新谷178"/>。

{{quotation|殺人犯でも告白しているのに、警察、検察、裁判官の誰一人として謝罪した者がいない。千人の指差すところ、病なくして死す、と云う世間の指弾、万人の白眼視に耐えに耐え、忍びに忍んだ両親、弟妹の長い屈辱の日々に対し、判決は、それは世間が悪いのであって親、弟妹として当然受ける事であり、受忍の限度にある。再審で無罪になったからそれで、慰謝されたと解すべきであり、それで足りる、と慰謝料の請求を棄却しています。<br />この不当な裁判に真実は復讐する。<br />必ず真実は復讐する。|[[1991年]]（平成3年）3月に那須が知人に宛てた手記より<ref>[[#田中|田中 (2002)]] 225頁</ref>}}

== その後 ==
[[File:Michinoeki nasuno yoichi no sato.jpg|thumb|280px|道の駅「那須与一の郷」]]
国賠請求の棄却後、那須は講演などで自身の冤罪体験を語りながら、国家賠償法の改正や[[陪審制]]の導入を求めて活動した<ref name="弘前88"/><ref>[[#読本|日本国民救援会裁判員制度検証プロジェクトチーム (2012)]] 255頁</ref>。地元からは[[名誉市民]]に推す声もあったが、辞退した<ref name="井上198">[[#井上11|井上 (2011)]] 199-200頁</ref>。

Xは自らが真犯人であることを告白した後、仙台市内で小さな廃品回収会社を興し、妻とともに勤勉に暮らしていた<ref>[[#新潮|『週刊新潮』第29巻第36号]] 133-134頁</ref>。しかし、[[1984年]]（昭和59年）4月に中学校3年生の女子生徒3人に金を払って猥褻行為を働いたとして逮捕され、[[青少年保護条例]]違反で罰金刑を受けた<ref name="新潮1325">[[#新潮|『週刊新潮』第29巻第36号]] 132頁、135頁</ref>。この事件が殺人の過去とともに各紙で一斉に報じられたため、前科が知れ渡ったXは廃品回収の提携先からも契約を打ち切られた<ref name="新潮1325"/>。

[[2004年]]（平成16年）には、那須氏ゆかりの地として知られる[[栃木県]][[大田原市]]に[[道の駅]]「[[道の駅那須与一の郷|那須与一の郷]]」がオープンした<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 198頁</ref>。この道の駅に[[那須与一]]を伝える伝承館が併設される運びとなった際には、裁判費用として売却されることを免れ大田原市へ寄託されていた那須家の家宝など701点も、その収蔵品として収められた<ref name="井上198"/>{{Efn|[[屋島の戦い]]で与一が腰に帯びていたとされる[[重要文化財]]、「太刀銘成高」とその拵（こしらえ）などを含む<ref name="井上198"/>。}}。そして[[2007年]]（平成19年）10月に「那須与一伝承館」が開館すると、那須はその名誉館長に就任している<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 201頁</ref>。

[[2008年]]（平成20年）1月24日、「私が死んでも、誰にも知らせないで欲しい」と言い遺し、那須隆は84歳で世を去った<ref>[[#井上11|井上 (2011)]] 202頁</ref>。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|35em}}

=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}

== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
{{Refbegin|50em}}
* {{Cite book|和書|author= 青地晨|authorlink=青地晨|title= 魔の時間 - 六つの冤罪事件|origyear= 1976|year= 1980|publisher= [[社会思想社]]|series= [[現代教養文庫]] 1022-B-010|isbn= 978-4390110228|ref= 青地}}
* {{Cite book|和書|author= 井上安正|authorlink=井上安正|title= 真犯人はつくられた - 弘前大教授夫人殺し事件・「無実の罪」証明のための二、二〇〇日の取材ノート|year= 1977|publisher= [[自由国民社]]|series= {{lang|en|Legal Books}}|ncid= BA48289298|ref=井上77}}
* {{Cite book|和書|author= 井上安正|title= 冤罪の軌跡 - 弘前大学教授夫人殺害事件|year= 2011|publisher= [[新潮社]]|series= [[新潮新書]] 402|isbn= 978-4106104022|ref=井上11}}
* {{Cite book|和書|author= 大塚一男|title= 誤判と再審 - 事実こそ問題である|year= 1979|publisher= [[晩聲社]]|ncid= BN01110779|ref=大塚}}
* {{Cite book|和書|author= 鎌田慧|authorlink=鎌田慧|title= 弘前大学教授夫人殺人事件||origyear= 1978|year= 2006|publisher= [[新風舎]]|series= 新風舎文庫 か-138|isbn= 978-4797489910|ref=鎌田}}
* {{Cite book|和書|author= 木村康|title= 血痕鑑定|year= 1982|publisher= [[中央公論社]]|series= [[中公新書]] 654|isbn= 978-4121006547|ref=木村82}}
* {{Cite book|和書|author= 木村康|others= [[庭山英雄]]ほか編|title= 日本の刑事裁判：21世紀への展望 - 大塚喜一弁護士在職30周年祝賀記念論文集|year= 1998|pages= 7-25|publisher= 現代人文社|isbn= 978-4906531523|chapter= 刑事鑑定をめぐる諸問題|ref=木村98}}
* {{Cite book|和書|author= 後藤昌次郎|authorlink=後藤昌次郎|title= 冤罪|year= 1979|publisher= [[岩波書店]]|series= [[岩波新書]]（黄版）81|ncid= BN00455458|ref=後藤}}
* {{Cite book|和書|author= 佐久間哲夫|title= 恐るべき証人 - 東大法医学教室の事件簿|year= 1991|publisher= 悠飛社|series= ホット・ノンフィクション|isbn= 978-4946448188|ref=佐久間}}
* {{Cite book|和書|author= 佐藤友之|authorlink=佐藤友之|title= 私の「冤罪」闘争記|year= 1982|publisher= 青年書館|isbn= 978-4791800261|ref=佐藤}}
* {{Cite book|和書|author= 新屋達之|editor=立正大学法学部|editor-link=立正大学|title= 立正大学法学部創立十周年記念論集 現代の法と政治|year= 1992|pages= 139-164|publisher= [[日本評論社]]|ncid= BB09012586|chapter= 誤判事件とその公判 - 弘前事件を素材に|ref= 新屋}}
* {{Cite book|和書|author= 田中輝和|title= 刑事再審理由の判断方法|year= 1996|publisher= [[信山社出版]]|isbn= 978-4797220698|ref= 田中96}}
* {{Cite book|和書|author= 田中輝和|title= 血痕鑑定と刑事裁判 - 東北三大再審無罪事件の誤判原因|year= 2002|publisher= [[東北大学出版会]]|isbn= 978-4925085540|ref=田中}}
* {{Cite book|和書|author=日本国民救援会裁判員制度検証プロジェクトチーム編著|authorlink=日本国民救援会|title= 裁判員読本＝ 冤罪判決実例大全 - プロ（裁判官）の常識は素人（市民）の非常識|year= 2012|publisher= 新協出版社|isbn= 978-4876478149|ref= 読本}}
* {{Cite book|和書|author= 半沢英一|authorlink=半沢英一|editor= 庭山英雄|title= 被告 最高裁|year= 1995|pages= 252-273|publisher= [[技術と人間]]|isbn= 978-4764501010|chapter= 数学と冤罪 - 弘前事件における確率論誤用の解析|ref=半沢}}
* {{Cite book|和書|author1=福島至|author2=新屋達之|others= [[秋山賢三]]ほか編著|title= 庭山英雄先生古稀祝賀記念論文集 民衆司法と刑事法学|year= 1999|pages= 221-253|publisher= 現代人文社|isbn= 978-4906531721|chapter= 弘前大学教授夫人殺人事件の研究 - 確定訴訟記録に基づく再検討|ref=福島、新屋}}
* {{Cite book|和書|author= 古畑種基|authorlink=古畑種基|title= 法医学の話|year= 1958|publisher= 岩波書店|series= 岩波新書（青版）323|ncid= BN00567291|ref=古畑58}}
* {{Cite book|和書|author= 吉岡述直|title= 刑事証拠上における血液型の価値 - 弘前大学医学部教授夫人殺し事件|year= 1952|publisher= [[法務総合研究所|法務研修所]]|series= 検察研究叢書 9|ncid= BN04683760|ref=吉岡}}
* {{Cite book|和書|author= 渡部保夫|authorlink=渡部保夫|title= 刑事裁判を見る眼|origyear= 1987|year= 2002|publisher= 岩波書店|series= [[岩波現代文庫]] S-37|isbn= 978-4006030674|ref=渡部}}
* {{Cite book|和書|editor=弘前大学医学部三十年史編集委員会|editor-link=弘前大学|title= 弘前大学医学部三十年史|year= 1976|publisher= 弘前大学医学部三十年史刊行会|ncid= BN02248986|ref=三十年史}}
* {{Cite book|和書|others= [[日本弁護士連合会]]編・発行|title= 弁護士白書|url= http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/books/data/hakusho_tokushu2013_1.pdf|edition= 2013年版|year= 2013|isbn= 978-4902873122|ref=弁護士白書}}
* {{Cite book|和書|editor=朝日新聞社|editor-link=朝日新聞社|title= 無実は無罪に - 再審事件のすべて|year= 1984|publisher= すずさわ書店|isbn= 978-4795405196|ref= 朝日}}
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=== 雑誌 ===
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* {{Cite journal|和書|author = [[阿部泰隆]]|date = 1992-01|title = 裁判と国家賠償|journal = [[ジュリスト]]|issue = 993|pages = 69-78|publisher = [[有斐閣]]|issn = 0448-0791|naid = 40001758052|ref= 阿部}}
* {{Cite journal|和書|author = 後藤和彦|authorlink= 後藤和彦 (メディア研究)|date = 1991-10-01|title = 番組部門〈ラジオ報道〉聞く人の心打つことばをどれだけ持つか|journal = 月刊民放|volume = 21|issue = 10|pages = 6-8|publisher = [[日本民間放送連盟]]|issn = 2432-9339|id = {{NDLJP|3471070/4}}|ref= 後藤2}} - 通巻：第244号。
* {{Cite journal|和書|author = 新谷一幸|date = 1991-06|title = 再審無罪判決と公訴・裁判の適法性|journal = ジュリスト 平成2年度重要判例解説|issue = 臨時増刊6月10日号（第980号）|pages = 177-178|publisher = 有斐閣|isbn = 978-4641015951|ref= 新谷}}
* {{Cite journal|和書|author= 田中輝和|date= 1979-10|title= 弘前事件国賠訴訟の争点と問題点 - 再審判決との関連で|journal= [[法律時報]]|volume= 51|issue= 第11号（通巻第625号）|publisher= 日本評論社|issn= 0387-3420|naid= 40003506182|pages= 46-50|ref= 田中79}}
* {{Cite journal|和書|author= 田中輝和編・解説|date= 1980-03|title= 弘前事件・古畑鑑定における確率の計算をめぐって|journal= 東北学院大学論集 - 法律学|issue= 16|publisher= [[東北学院大学]]文経法学会|issn= 0385-4094|naid= 40002640859|pages= 95-131|ref= 田中80}}
* {{Cite journal|和書|author = 西野喜一|date = 1993-01|title = 再審による無罪判決の確定と裁判の違法性|journal = [[判例タイムズ]]|volume = 44|issue = 第2号（通巻第799号）|pages = 37-47|publisher = 判例タイムズ社|issn = 0438-5896|naid = 40003209390|ref= 西野}}
* {{Cite journal|和書|author = 浜上則雄、[[加賀山茂]]|date = 1977-10|title = 法医学者による血液型に基づく証明方法に対する批判と提案（上）|journal = ジュリスト|issue = 650|pages = 95-101|publisher = 有斐閣|issn = 0448-0791|naid = 40001751696|ref= 浜上、加賀山}}
* {{Cite journal|和書|author = 弘前大学アムネスティ・クラブ、福島至|date = 1992-01|title = インタビュー いまも続く、冤罪の苦しみ - 那須隆氏に聞く|journal = [[法学セミナー]]|volume= 37|issue = 第1号（通巻第445号）|pages = 84-88|publisher = 日本評論社|issn = 0439-3295|naid= 40004892366|ref = 弘前}}
* {{Cite journal|和書|date = 2004-03|journal = [[GALAC|月刊ぎゃらく]]|issue = 2004年3月号増刊 ギャラクシー賞40年史 {{lang|en|FORTY YEARS HISTORY OF THE GALAXY AWARD}}|publisher = [[放送批評懇談会]]|ncid = BA66487307|ref= ぎゃらく}}
* {{Cite journal|和書|date = 1984-09|title = 弘前大教授夫人殺し『真犯人』でも歩けた『金と女』の道|journal = [[週刊新潮]]|volume = 29|issue = 第36号（通巻第1474号）|pages = 132-135|publisher = 新潮社|issn= 0488-7484|ref= 新潮}}
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== 外部リンク ==
* [https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/1977/1977_1.html 弘前大教授婦人殺し事件再審無罪判決に関する談話] - 日本弁護士連合会
* [https://www.nichibenren.or.jp/document/statement/year/1981/1981_6.html 那須隆氏国賠事件判決にあたり] - 日本弁護士連合会
* {{Kotobank|弘前大学教授夫人殺害事件}}

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