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江戸時代の三貨制度
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{| border="0" cellpadding="2" cellspacing="0" align="right" style="background:#ffffff" |+ '''江戸時代の三貨制度''' |- | align="center" | 小判 || || align="center" colspan="2"| 丁銀・豆板銀 || || align="center" | 銭貨 |- |[[File:Genbun-koban.jpg|64px|一両小判]] | align="center"|<math> \overrightarrow\longleftarrow \, </math><br />[[File:Ryogae.jpg|32px|両替]] |[[File:Genbun-chogin.jpg|64px|丁銀]] |[[File:Genbun-mameitagin.jpg|64px|小玉銀]] | align="center"|<math> \overrightarrow\longleftarrow \, </math><br />[[File:Ryogae.jpg|32px|両替]] |[[File:Kanei-1kanmon.jpg|64px|寛永通寳一貫文]]<br />[[File:Kanei-tsuho-takada.jpg|64px|寛永通寳]]<br />[[File:Kanei-tsuho-to4-11nami.jpg|64px|寛永通寳真鍮四文銭]] |} '''江戸時代の三貨制度'''(えどじだいのさんかせいど、Tokugawa coinage)とは、[[江戸時代]]の[[日本]]において[[金貨|金]]([[小判]]、[[一分判]])、[[銀貨|銀]]([[丁銀]]、[[豆板銀]])および[[銭貨|銭]]([[寛永通寳]])という基本通貨が併行流通した[[貨幣]]制度のことである。 これらの金貨、銀貨および銭貨の間には[[江戸幕府|幕府]]の触書による[[御定相場]]も存在したが、実態は互いに[[変動相場制|変動相場]]で取引されるというものであり、[[両替商]]という[[金融]]業が発達する礎を築いた。金・銀・銭とは別に、[[藩札]]などの[[紙幣]]も流通していたが、日本全国で通用する紙幣はなかった。 幕府は公式に「三貨制度」として触書を出したわけではないが、「三貨」という用語は[[文化 (元号)|文化]]12年([[1815年]])に両替屋を営んでいた草間直方が[[貨幣学]]研究の集大成として刊行した『三貨図彙』に見られる<ref name="Kusama1815">[[#Kusama1815|草間(1815).]]</ref>。 なお、「江戸時代の三貨制度」と呼ばれているものの、江戸時代の期間は徳川家康が征夷大将軍に任命されて幕府を樹立した慶長8年([[1603年]])から、慶応から明治に改元された明治元年([[1868年]])とするのが主流の学説であるのに対し、三貨制度が用いられた期間は[[関ヶ原の戦い]]の直後(慶長5年([[1600年]])ないし慶長6年([[1601年]]))から[[明治]]4年([[1871年]])の[[新貨条例]]が制定されるまでの270年間にも及ぶため<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p52.]]</ref>、実際には江戸時代を(前後数年程度とはいえ)超えた期間に渡って使われたことになる。 == 三貨制度の興り == 三貨制度は[[徳川幕府]]により確立されたものであり、[[織田信長]]も既に金1両=銀7.5両=銭1500文とする三貨制度の構想を持っていたが、戦乱の時代にあってこの頃の武将らには貨幣阿堵物観が強く貨幣制度の整備にはそれほど積極的でなかった。[[豊臣秀吉]]も[[天正]]期に金銀貨の鋳造を命じているが、これも恩賞用の域を出るものではなかった。大口取引に[[秤量貨幣]]としての金銀貨を使用する貨幣経済はこの頃より商人を中心として発展し始め、また[[貴族]]および[[寺院]]が貢租や賜物として取得した金銀を銭貨に両替し、あるいは遠隔地への支払いおよび諸物の購入のための判金の需要が生じ、金屋(かねや)および銀屋(かねや)といった金銀の[[精錬]]および[[両替]]を行うものが現れ始めた<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p107.]]</ref>。江戸幕府においても貨幣の鋳造という業務を[[商人]]に委託したのもこういった背景があった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p132-137.]]</ref>。 また貨幣経済の拡大に伴い銭貨では取引に限界が生じ、また銭貨は長年の流通により[[鐚銭]]が多くを占めるようになったことから[[撰銭]]の慣行が出始めたため、[[貴金属]]による価値の裏付のある金貨および銀貨の需要が高まったとの説もある<ref>西川裕一 『金融研究 江戸期三貨制度の萌芽−中世から近世への貨幣経済の連続性』 [[日本銀行金融研究所]]、[[1999年]] [http://www.imes.boj.or.jp/japanese/zenbun99/yoyaku/kk18-4-3.html 金融研究]</ref>。 家康がまず金貨および銀貨の整備を行ったのは、戦国大名にとって[[金鉱山|金山]]および[[銀山]]を手中に納めることが戦力を増強し天下を掌握する重要な戦略の一つであったという背景がある。そのため銭貨の整備は約35年遅れることとなり、渡来銭を駆逐し寛永通寳が充分に行き渡ったのは、[[関ヶ原の戦い]]から半世紀以上後の[[寛文]]年間のことであった。一方金銀貨についても特に銀の貿易による流出などにより慶長金銀が全国的に充分行き渡る状況にはなく、依然として[[領国貨幣]]の流通が並行し、領国貨幣を回収して通貨の統一を達成したのは[[元禄]]の[[貨幣改鋳|吹替え]]のときであった<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p268-269.]]</ref>。 古くは[[760年]]に恵美押勝([[藤原仲麻呂]])が鋳造を命じた[[万年通宝|萬年通寳]]、[[大平元宝|大平元寳]]および[[開基勝宝|開基勝寳]]があり、これを三貨と呼ぶこともあるが<ref>利光三津夫 『押勝の三貨』 [[慶應通信]]、[[1983年]]</ref>、貨幣経済の発達が充分でなかった時代にあって、大平元寳および開基勝寳は銅銭の名目価値を高く設定するための金貨および銀貨であり一般に流通させる目的のものではなかった<ref>[[#Imamura2001|今村(2001), p38-40.]]</ref>。 == 金 == {{右 |{{Vertical images list |幅=100px |1=Keicho-koban2.jpg |2=慶長小判 |3=Keicho-1buban.jpg |4=慶長一分判 }} }} 金貨の通貨単位は両(りょう)であり、補助単位として1/4両にあたる[[分 (曖昧さ回避)|分]](ぶ)、1/4分にあたる[[朱]](しゅ)があり、この4進法の[[通貨]]単位は、[[武田信玄]]が鋳造を命じたとされる[[甲斐国]]の領国貨幣である[[甲州金]]の通貨体系を踏襲したものであった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p56.]]</ref>。 基本通貨は[[計数貨幣]]である金一両の小判とその1/4の量目の[[一分判]]であるが、[[元禄]]期には小判の1/8の[[二朱金|二朱判]]が登場し、江戸時代後半には小判に対し金含有量の劣る、[[五両判]]、[[二分金|二分判]]、二朱判および[[一朱金|一朱判]]も発行された。さらに[[明和]]期に登場した[[南鐐二朱銀]]を皮切りに[[一分銀]]および[[一朱銀]]など本来金貨の単位であった、分および朱を単位とする計数貨幣が発行されるに至った。これらは「金代わり通用の銀」<ref>『御用留便覧』</ref>あるいは「金称呼定位銀貨」とも呼ばれる<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p277-291.]]</ref>。現代の古銭収集においては、二分判(二分金)、一分判(一分金)、二朱判(二朱金)および一朱判(一朱金)といった、長方形(一朱判は正方形)の金貨を総称して「分金」、一分銀、南鐐二朱銀および一朱銀といった長方形の金貨単位の銀貨を総称して「分銀」、これらをまとめて「分金銀類」と呼ぶことがある。 [[中世]]の日本において[[東北地方]]を中心に[[砂金]]の採取が行われるようになり、砂金を目方に応じて高額取引に使用したのが金貨の流通の始まりであった。やがて砂金を鎔融して吹金あるいは練金と呼ばれる金錠が用いられるようになり、さらに中身まで金でできていることを証明するために叩き伸ばし判金としたものが用いられるようになった。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]は金貨は[[大判]]が主流を占め、これは恩賞、贈答あるいは高額の借金を大判として返すしきたりがあるなど、特殊な用途に限られていたが<ref>[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998)p158.]]</ref><ref name="Mikami1996-71">[[#Mikami1996|三上(1996), p71-80.]]</ref>、徳川家康は1600年頃、産金の増大に加えて[[中国]]からの金錠の輸入により金準備が整ったとして、より小額で、墨書を極印に改め、一般流通を目的とした小判を発行するに至ったとされる<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p106-107.]]</ref><ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p83.]]</ref>。 なお大判は金一枚(四十四匁)を単位とするもので恩賞および贈答に用いられるものであり、本来通貨として一般流通する目的のものではなかったが、市場に流れることもあり相場に応じて取引された<ref name="Mikami1996-71" />。 {{-}} 計算上の金貨の通貨単位の表し方として、「[[永]]~文」というものもあり、永一文は1/1000両に相当し、朱未満の端数の計算や、永高による年貢額の表示に用いられた。この「永」の名称は寛永通宝発行以前の時代に流通していた[[永楽通宝]]の名残である。幕府の発行した1朱未満の金貨単位の金属貨幣は存在しないが、[[藩札]]では1朱未満の金貨単位の金額が「永銭~文」の形で表示された例がある([[地方貨幣]]の金属貨幣では、「永銭~文」の形ではないが、1朱未満の金貨単位の金額としては「[[琉球通宝]]半朱」の例がある)。 == 銀 == {{右 |{{Vertical images list |幅=100px |1=Keicho-chogin2.jpg |2=慶長丁銀 |3=Keicho-mameitagin2.jpg |4=慶長豆板銀 }} }} 銀貨は量目不定の丁銀および豆板銀と、天秤で目方を定めて通用する秤量貨幣が基本通貨であり、通貨単位は[[天秤]]秤による測定値、すなわち質量単位である、[[貫]](かん)、[[匁]](もんめ)および分(ふん)が用いられた。銀1貫は銀1000匁、銀1匁は銀10分である。また「銀20匁」など、20匁以上で下一桁が0である場合、「銀20目」と表すのが一般的であった。 特に丁銀は裸銀として使用されることはほとんどなく<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p124-143.]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p214-219.]]</ref><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p117-118.]]</ref>、500匁毎に和紙で包んだ[[包銀]]として用いられることが多かった<ref name="taya">田谷博吉 『近世銀座の研究』 [[吉川弘文館]]、[[1963年]]</ref>。一方豆板銀は携帯に便利な銀秤を用いて取引に用いられることもしばしばであった<ref name="Zoheikyoku1940-39">[[#Zoheikyoku1940|造幣局(1940), p39.]]</ref>。 明和年間に登場した南鐐二朱銀や、一分銀、一朱銀といった貨幣は、材質上は銀貨でありながら、「銀~匁」という[[銀目]]を直接表すものではなく、金貨の単位で表された計数貨幣である。こうした金貨単位の計数銀貨の台頭以降、丁銀および豆板銀の発行は次第に衰退し、銀目取引は[[手形]]および[[藩札]]に中心が移っていき<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p215.]]</ref>、金額の表示上は銀目で示されていても、実際の金属貨幣による支払いには金貨・金貨単位の計数銀貨および銭貨で行うことが多くなり、幕末期に至っては丁銀や豆板銀はほとんど流通しない状態となり、日常的には銀目は帳簿・藩札・手形・店頭での価格表示などに見られる計算単位でしかないという感覚となっていった。これを[[銀目#銀目の空位化|銀目の空位化]]と呼ぶ。 銀貨も中世の頃から[[灰吹銀]]およびそれに極印を打った極印銀が目方に応じて高額取引に使用され、金貨と同様にこれらを打ち伸ばしたのであるが、金と異なり不純物の関係で銀は脆く、薄い板に延ばそうとするとひび割れるため、[[譲葉]]あるいは[[ナマコ]]型の丁銀となった。このような丁銀、および豆板銀(金貨単位の計数銀貨の登場以降はそれも)の鋳造を行う[[銀座 (歴史)|銀座]]は秀吉が[[堺]]、[[京都]]の銀吹屋を集めて[[大坂]]に常是座を設けたことにより始まったとされる<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p96-98.]]</ref>。 また[[灰吹法]]の導入により[[16世紀]]後半から[[石見銀山]]を始めとして日本各地で銀の産出が増大し、さらに[[生糸]]などの貿易先として重要であった中国において[[銀錠]]が大口取引に使用されていたことも影響して、銀が大坂を中心とする商人により盛んに使用されるようになった。家康はこのような銀を取引の中心とする商人の力を無視することができず、金貨の使用を強制するよりは既存の体制を継承して貨幣制度の整備を進める道を選択した<ref name="#1">[[#Taya1963|田谷(1963), p124-131.]]</ref>。 恩賞および贈答には銀一枚(四十三匁)とする単位の包銀が用いられた<ref name="#1"/>。 {{-}} == 銭 == {{右 |{{Vertical images list |幅=125px |1=Kanei-tsuho-takada.jpg |2=寛永通寳 |3=Kanei-tsuho-bun.jpg |4=寛永通寳文銭 }} }} 銭貨は鋳造による穴銭一枚を一[[文 (通貨単位)|文]](もん)とする計数貨幣であり、銭1000文を銭1[[貫文]](かんもん)とする通貨単位であった。 通貨単位としての文の歴史は古く日本では[[皇朝十二銭]]より始まるが、この頃はまだ全国的に広く流通するというものではなかった。皇朝十二銭の鋳造が途絶えてしばらくして、経済が発達するにつれ貨幣の需要が高まるが、その後の[[鎌倉幕府]]および[[室町幕府]]は貨幣を発行するまでには至らず、[[貿易]]により[[宋銭]]を始めとする中国の銭貨が多量に輸入され流通するという、[[渡来銭]]の時代が数百年続いた<ref>[[#=Takizawa1996|滝沢(1996), p56-108.]]</ref>。 金貨および銀貨が家康により関ヶ原の戦いの直後から整備されたのに対し、銭貨については江戸時代初期に[[慶長通宝|慶長通寳]]および[[元和通宝|元和通寳]]の発行はあったものの、これらは少量にとどまり依然渡来銭の流通は続いた。また、経済の中心であった上方では鐚銭が用いられており、永楽銭を通用させてきた徳川氏領国(=関東地方)は特殊な存在であった。このため、家康は鐚銭を銭貨の基準に充てて、徳川氏領国で用いられてきた永楽銭の使用を停止していく方針を採り、慶長通寶も鐚銭と同価値で鋳造され、寛永通寶へと継承されていく<ref name="fujimoto">藤本隆士 『近世匁銭の研究』 [[吉川弘文館]]、2014年</ref>。寛永通寳が本格的に幕府主導で発行されるようになったのは3代の[[徳川家光]]の時代、すなわち[[寛永]]13年([[1636年]])以降であった<ref>[[#=Takizawa1996|滝沢(1996), p123-133.]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p89-101.]]</ref>。 基本通貨は銅一文銭であるが、[[銅]]地金の逼迫あるいは幕府の財政事情により[[宝永通宝|寳永通寳]]の10文銭の発行が企てられたり、明和期以降は[[寛永通宝#真鍮四文銭|寛永通寳真鍮四文銭]]および[[寛永通宝#鉄一文銭|鉄一文銭]]が定着し、[[幕末]]には100文銭である[[天保通宝|天保通寳]]が流通の主流を占めるようになった。 銭貨は穴を紐に通してまとめた銭緡(ぜにさし)として用いられることもあり、96枚を100文として用いる[[省陌]]法が一般的な慣行であった<ref>[[#=Takizawa1996|滝沢(1996), p144-146.]]</ref><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p55-57.]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p97-99.]]</ref>。 == 貨幣の鋳造および発行 == 江戸時代に貨幣の鋳造を担ったのは、金貨は[[金座]]、銀貨は銀座、銭貨は[[銭座]]であった。金座は[[後藤庄三郎]]を御金改役として江戸を中心とし、京都、佐渡にも鋳造所が設けられ、銀座は[[大黒常是]]が御銀改役となり京都を中心として江戸京橋でも鋳造が行われ、大坂、長崎にも役所が置かれていたが、[[寛政]]年間以降は江戸[[日本橋蛎殻町|蛎殻町]]に集約された。銭座は日本各地に設置されたが、常設のものではなかった。また[[大判座]]は当初[[後藤四郎兵衛|後藤宗家]]のあった京都に開設されていたが、明暦期あるいは元禄期以降は江戸の後藤役所が中心となり、やはり常設のものではなかった。 これらの機関は[[勘定奉行]]の監督下に置かれたが、直接発行を担ったのは幕府ではなく、金座は後藤家および金座人、銀座は大黒常是および銀座人と、特許を得た[[御用達]][[町人]]であり、銭座は銭貨需要が生じる毎に公募された町人による[[請負]]事業であった<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p1-2.]]</ref><ref name="Mikami1996-93">[[#Mikami1996|三上(1996), p93-94.]]</ref>。 金貨および銀貨の鋳造は[[天領]]の金山([[佐渡金山]])および銀山(石見銀山、[[生野銀山]]など)から産出される地金を金座および銀座が預り、貨幣に鋳造し[[勘定所]]に納め、その一部を分一金あるいは分一銀として金座および銀座が受取る御用達形式と、金座人あるいは銀座人が自己責任で金銀地金を買い集め貨幣に鋳造し一部を[[運上]]として幕府に納める自家営業方式があった<ref name="Taya1963-38">[[#Taya1963|田谷(1963), p38-40.]]</ref><ref name="Nishiwaki1999-98">[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p98-99.]]</ref>。銭座については銭貨材料を自己責任で買い集めて銭貨を鋳造して両替屋に売却し、一部を幕府に運上するというものであった<ref name="Mikami1996-93" />。 慶長金銀は小判師あるいは[[銀細工師]]らが自宅で貨幣の形に加工したものを後藤役所あるいは常是役所に持参し品位、量目を改めた上で極印打ちを受ける「手前吹」形式であったが、元禄金銀では[[本郷 (文京区)|本郷]]の大根畑に吹所を設けて職人を集めて鋳造を行う「直吹」方式となった。本郷における鋳造は火災により元禄11年([[1698年]])に終了したが、以降、職人らは金座および銀座に集められ鋳造が行われた<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p244-245.]]</ref>。 請負い形式であった銭座も明和2年([[1765年]])以降、金座および銀座の監督下に置かれ、幕府による統制が強化された。さらに[[松平定信]]による[[寛政の改革]]の一環として金座では寛政2年([[1790年]])頃、銀座では寛政12年([[1800年]])に粛正が実施され、幕府による統制が強化された<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p223.]]</ref>。 == 流通状況 == 「江戸の[[金遣|金遣い]]」とされる通り金貨は主に[[江戸]]を中心として流通し、大名および上級武士が大口取引のために小判を使用した。また、西日本の端にあった薩摩藩は銀遣いが一般的な西日本において金遣いを採用していた例外地域であったが、清などとの対外交易では銀貨を用いていた<ref name="fujimoto"/>。一方「上方の[[銀遣|銀遣い]]」とされる通り[[秤量銀貨]]は大坂を中心とする[[西日本]]から東北の広い範囲で流通し、銀貨は主に商人が大口取引に用い、商品相場は銀建で表されるのが常であった<ref name=Mitsui1989>[[#Mitsui1989|近世後期における主要物価の動態(1989年)]]</ref>。 大口取引にはこのように金貨および銀貨が用いられたが、一般の小売には銭貨が主として用いられ、庶民は銭貨および稀に豆板銀を手にする程度であった<ref name="Zoheikyoku1940-39" />。このような住み分けは決して制度として確立されたものではなく自然発生的に形成されたものであった。 また、銭貨は金遣いの地域、銀遣いの地域の両方で通用する貨幣であり、単なる小口貨幣・補助貨幣の役割を越えて、全国通貨としての性格も有した。銭貨の場合には重量があり元来は遠隔取引には向かなかったが、海運の発展により船舶に大量の銅銭を載せて航行する事も可能になり、例えば銀遣いの地域である九州の船持商人が大量の銭を載せて金遣い地域の松前に向かい銭貨によって現地の産品を購入することで両替の手間を省くようなことも行われた<ref name="fujimoto"/>。 以下に『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』に基づく金貨および銀貨の時代別流通高および『図録 日本の貨幣』による銭貨鋳造高の推定値を示す<ref name="Okurasho1875">[[#Okurasho1875|大蔵省(1875).]]</ref><ref>[[#Zuroku1972|図録 日本の貨幣 2巻「近世幣制の成立」(1973).]]</ref><ref>佐藤忠三郎 『旧貨幣表』 [[1873年]]</ref>。元禄・宝永の吹替えにより宝永3年([[1706年]])から正徳4年([[1714年]])にかけて通貨量が拡大し、正徳の吹替えにより[[デフレーション]]に陥り元文元年([[1736年]])に通貨量が縮小した状況が窺える。また[[文政]]年間以降は小判および丁銀の流通高が減少し、代わって定位貨幣が増加すると共に通貨量が著しく拡大したことが判る。 === 小判および定位貨幣の流通高 === {| style="white-space:nowrap" |[[元禄]]8年([[1695年]]) |style="text-align:right"|10,627,055両 |<!-- 最上段 --><div style="float:left; width:32px; height:16px; background:#ffd700"></div> |- |[[宝永]]3年([[1706年]]) |style="text-align:right"|14,036,220両 |<!-- 2段目 --><div style="float:left; width:42px; height:16px; background:#ffd700"></div> |- |宝永7年([[1710年]]) |style="text-align:right"|13,512,484両 |<!-- 3段目 --><div style="float:left; width:41px; height:16px; background:#ffd700"></div> |- |[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]]) |style="text-align:right"|11,995,610両 |<!-- 4段目 --><div style="float:left; width:36px; height:16px; background:#ffd700"></div> |- |[[元文]]元年([[1736年]]) |style="text-align:right"|8,742,096両 |<!-- 5段目 --><div style="float:left; width:26px; height:16px; background:#ffd700"></div> |- |[[安永]]元年([[1772年]]) |style="text-align:right"|18,698,215両 |<!-- 6段目 --><div style="float:left; width:56px; height:16px; background:#ffd700; text-align:center">小判</div> |- |[[文政]]元年([[1818年]]) |style="text-align:right"|24,631,215両 |<!-- 7段目 --><div style="float:left; width:56px; height:16px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:18px; height:16px; background:#c0c0c0"></div> |- |[[天保]]3年([[1832年]]) |style="text-align:right"|40,206,600両 |<!-- 8段目 --><div style="float:left; width:46px; height:16px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:24px; height:16px; background:#ddff75"></div></div><div style="float:left; width:50px; height:16px; background:#c0c0c0"></div> |- |[[安政]]元年([[1854年]]) |style="text-align:right"|48,556,952両 |<!-- 9段目 --><div style="float:left; width:44px; height:16px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:40px; height:16px; background:#ddff75"></div><div style="float:left; width:62px; height:16px; background:#c0c0c0"></div> |- |[[万延]]元年([[1860年]]) |style="text-align:right"|82,262,552両 |<!-- 10段目 --><div style="float:left; width:45px; height:16px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:51px; height:16px; background:#ddff75"></div><div style="float:left; width:151px; height:16px; background:#c0c0c0"></div> |- |明治2年([[1869年]]) |style="text-align:right"|126,837,932両 |<!-- 最下段 --><div style="float:left; width:32px; height:16px; background:#ffd700; text-align:center"></div><div style="float:left; width:191px; height:16px; background:#ddff75; text-align:center">定位金貨</div><div style="float:left; width:157px; height:16px; background:#c0c0c0; text-align:center">定位銀貨</div> |} === 丁銀・豆板銀の流通高 === {| style="white-space:nowrap" |元禄8年(1695年) |style="text-align:right"|157,059貫 |<!-- 最上段 --><div style="float:left; width:79px; height:16px; background:#c0c0c0; text-align:center"></div> |- |宝永3年(1706年) |style="text-align:right"|405,850貫 |<!-- 2段目 --><div style="float:left; width:203px; height:16px; background:#c0c0c0"></div> |- |宝永7年(1710年) |style="text-align:right"|394,175貫 |<!-- 3段目 --><div style="float:left; width:197px; height:16px; background:#c0c0c0"></div> |- |正徳4年(1714年) |style="text-align:right"|777,563貫 |<!-- 4段目 --><div style="float:left; width:389px; height:16px; background:#c0c0c0"></div> |- |元文元年(1736年) |style="text-align:right"|331,025貫 |<!-- 5段目 --><div style="float:left; width:166px; height:16px; background:#c0c0c0"></div> |- |安永元年(1772年) |style="text-align:right"|526,783貫 |<!-- 6段目 --><div style="float:left; width:263px; height:16px; background:#c0c0c0"></div> |- |文政元年(1818年) |style="text-align:right"|526,783貫 |<!-- 7段目 --><div style="float:left; width:263px; height:16px; background:#c0c0c0"></div> |- |天保3年(1832年) |style="text-align:right"|381,448貫 |<!-- 8段目 --><div style="float:left; width:191px; height:16px; background:#c0c0c0"></div> |- |安政元年(1854年) |style="text-align:right"|234,091貫 |<!-- 9段目 --><div style="float:left; width:117px; height:16px; background:#c0c0c0"></div> |- |万延元年(1860年) |style="text-align:right"|234,558貫 |<!-- 10段目 --><div style="float:left; width:117px; height:16px; background:#c0c0c0"></div> |- |明治2年(1869年) |style="text-align:right"|210,702貫 |<!-- 最下段 --><div style="float:left; width:105px; height:16px; background:#c0c0c0"></div> |} === 銭貨の鋳造高 === {| style="white-space:nowrap" |[[寛永]]年間(銅一文銭) |style="text-align:right"|2,750,000貫文 |<!-- 最上段 --><div style="float:left; width:28px; height:16px; background:#cdbe70"></div> |- |[[明暦]]・[[万治]](銅一文銭) |style="text-align:right"|500,000貫文 |<!-- 2段目 --><div style="float:left; width:5px; height:16px; background:#cdbe70"></div> |- |[[寛文]]〜[[天和 (日本)|天和]](銅一文銭) |style="text-align:right"|1,970,000貫文 |<!-- 3段目 --><div style="float:left; width:20px; height:16px; background:#cdbe70"></div> |- |元禄・宝永(銅一文銭) |style="text-align:right"|2,080,000貫文 |<!-- 4段目 --><div style="float:left; width:21px; height:16px; background:#cdbe70"></div> |- |正徳(銅一文銭) |style="text-align:right"|680,000貫文 |<!-- 5段目 --><div style="float:left; width:7px; height:16px; background:#cdbe70"></div> |- |享保(銅一文銭) |style="text-align:right"|2,000,000貫文 |<!-- 6段目 --><div style="float:left; width:20px; height:16px; background:#cdbe70"></div> |- |元文〜[[延享]](一文銭) |style="text-align:right"|6,760,000貫文 |<!-- 7段目 --><div style="float:left; width:68px; height:16px; background:#cdbe70"></div> |- |[[明和]]〜[[天明]](鉄一文銭) |style="text-align:right"|5,250,000貫文 |<!-- 8段目 --><div style="float:left; width:52px; height:16px; background:#cdbe70"></div> |- |明和〜天明(四文銭) |style="text-align:right"|22,150,000貫文 |<!-- 9段目 --><div style="float:left; width:221px; height:16px; background:#cdbe70; text-align:center">〔[[ママ (引用)|ママ]]〕</div> |- |文政(四文銭) |style="text-align:right"|320,000貫文 |<!-- 10段目 --><div style="float:left; width:3px; height:16px; background:#cdbe70"></div> |- |天保(百文銭) |style="text-align:right"|3,973,520貫文 |<!-- 11段目 --><div style="float:left; width:40px; height:16px; background:#cdbe70"></div> |- |[[弘化]]〜万延(百文銭) |style="text-align:right"|35,647,710貫文 |<!-- 12段目 --><div style="float:left; width:356px; height:16px; background:#cdbe70"></div> |- |慶應・明治(百文銭) |style="text-align:right"|8,859,175貫文 |<!-- 最下段 --><div style="float:left; width:89px; height:16px; background:#cdbe70"></div> |} 明和期の四文銭鋳造高は『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』の数値と著しく矛盾し、過大評価されている可能性あり。 == 名目価値と実質価値 == [[File:Genroku-koban.jpg|200px|right|thumb|元禄小判]] [[File:Genzi-chogin.jpg|100px|right|thumb|元禄丁銀]] [[File:Kanei-tsuho-ogiwara.jpg|125px|right|thumb|寛永通寳京都七条銭(荻原銭)]] 金一両とは[[京目]]一両(4.4匁)の[[金]]が本来の定義である。しかし[[慶長小判]]の金含有量においても1割弱の金座における鋳造手数料が差し引かれたものとなっている<ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p89.]]</ref><ref>[[#Tebiki1998|貨幣商組合(1998)p50.]]</ref>。 一方、当時の金および[[銀]][[地金]]の取引相場については、例えば最高品位の銀地金は品位80%の[[慶長丁銀]]の1割増を持って買い入れるなど価格が定められていたが、江戸時代の金銀地金の取引というものは金座および銀座という、利益の独占的収受という特許を得た組織によるものであった<ref name="Taya1963-38" />。 強いていうならば京目一両の金をもって金一両とするというのが金平価と言うべきものであるが、この時代、幕府は[[金本位制]]および[[銀本位制]]を特に定めたわけではなく、金銀含有量に基づく相場が形成されたことは[[本位貨幣]]制度的なものが自然に形成されたと解釈できる。また江戸時代の貨幣は何れも通用制限額が設定されることはなかった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p117-119.]]</ref>。 また[[元禄小判]]以降の産金の減少および幕府の財政事情により金品位が低下した小判においても、建前上は一両は一両として慶長小判と等価に通用すべきものとして定められた。丁銀においても同様で銀品位は低下しても銀は銀として建前上は慶長丁銀と等価に通用すべきものであった。品位の下げられた金貨および銀貨には丸枠に「元」あるいは「文」など年代印が打たれ区別に便宜が図られ、その一方で正徳金銀および享保金銀は基本的に慶長金銀と同位であるから年代印は打たれなかった<ref>[[#Aoyama1982|青山(1982), p106.]]</ref>。 このような貨幣の品位の低下を伴う吹替えは、寛文年間頃より仕事の減少した金座および銀座から申し出があったものを、[[荻原重秀]]が正式に採用し元禄8年(1695年)に初めて行われたのであるが、重秀の「貨幣は国家の造る所、瓦礫を以て之にかえるといえども行うべし。今鋳るところの銅は悪薄といえども、なお紙鈔に勝れり。之を行ひとぐべし」という、国家権力をもって通貨の価値を維持し通用させるという今日の[[管理通貨制度]]の下では当然のこととされるこの政策も、実質価値を重視する商人が経済を牛耳っていた当時としては斬新過ぎ、時期尚早であった。 元禄の改鋳では品位は低下しても新旧差別無きよう通用させる触書であったが、現実には[[グレシャムの法則]]が作動し、高品位の慶長金銀は退蔵され、低品位の元禄金銀のみ流通するといった現象が見られ、品位の高い貨幣に対し増歩通用を認めて初めて旧貨も流通した。また[[享保]]期に品位の異なる[[元禄丁銀|元禄銀]]、[[宝永丁銀|宝永銀]]および慶長・[[正徳丁銀|正徳銀]]が混在通用した際、それぞれ銀含有量に基づいて通用価値が決まった例<ref>[[#=Takizawa1996|滝沢(1996), p207-209.]]</ref><ref>[[#RyogaeNendaiki-2|両替年代記(1933), p200-202.]]</ref>を筆頭に、江戸時代の金銀貨というものは額面よりもむしろ金銀含有量に基づく実質価値に近い形で自然に相場が形成されていくのが常であった。敢えて言うならば貨幣に含まれる金銀量と相場に基づく取引価格が金銀地金の自由相場に近いものということになる。 額面表記による名目貨幣である一分銀のような貨幣が定着し、貨幣が地金価値に依存しない額面により通用するようになったのは、金貨を中心とした貨幣制度が確立した[[天保]]期以降であったとの見方もある<ref>大塚英樹 『金融研究 江戸時代における改鋳の歴史とその評価』 日本銀行金融研究所、1999年 [http://www.imes.boj.or.jp/japanese/zenbun99/yoyaku/kk18-4-2.html 金融研究]</ref> 。しかしこの信用貨幣としての貨幣体系もその後、安政6年([[1859年]])の開港に伴う小判流出により瓦解することとなる。依然、当時の世界の大勢は信用貨幣としての金銀貨が認められる状況になく、その後、[[近代]]に入っても銀本位制および金本位制の時代が続く状勢にあった。 {{-}} == 貨幣吹替え == [[File:Arai_Hakuseki_-_Japanischer_Gelehrter.jpg|200px|right|thumb|[[新井白石]]]] 貨幣の品位および量目を変更し、旧貨幣を回収して新たに鋳造した新貨幣と引替えることを吹替え(ふきかえ)といい<ref name="Shushu2004-11">西脇康「江戸期の銀貨について」『月刊 収集』2004年11月号、Vol.29, No.11, p18-27.</ref>、現在では[[貨幣改鋳|改鋳]](かいちゅう)とも呼ばれる。 貨幣吹替えが行われる度、幕府は引替および通用に関する触書を公布するのが常であるが、時に[[宝永]]期の[[宝永永字丁銀|永字銀]]、[[宝永三ツ宝丁銀|三ツ宝銀]]および[[宝永四ツ宝丁銀|四ツ宝銀]]のように勘定奉行が銀座と結託して、正規の手続きを経ることなく闇に通貨が発行されるといった事態も発生した<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p186-194.]]</ref><ref>[[#=Takizawa1996|滝沢(1996), p204-207.]]</ref>。 吹替えに伴い、新金および新銀を円滑に流通させ、旧貨幣の回収を促すため、幕府は旧貨幣の通用停止の期限を定めて告知し、引替えるよう度々触書を出したが、地金価値の低下を補償する増歩が低く設定されることが多かったため引替は思うように進捗せず、期限は度々延期されるのが常であった。もっとも金貨および銀貨は通用停止となっても地金価値が存在するため無価値となるわけではなく、期限を過ぎても金座および銀座において潰し値(つぶしね、地金再生価格)において売却することは可能であった。この旧貨回収業務は主に本両替が担当を命ぜられ、回収された金銀貨は金座および銀座に送られて新貨の材料とされた。貨幣吹替えによる金座および銀座の営業方式は御用達方式に準ずるものであった<ref name="Nishiwaki1999-98" />。 また品位低下を伴う吹替えの度、商人らは品位の高い旧銀を退蔵し、しばしば銀相場の高騰を招いた。[[元文]]元年([[1736年]])の吹替えの際も商人が旧銀を退蔵し銀相場を吊り上げているとして[[町奉行]]の[[大岡忠相]]は両替商を呼びつけ、御定相場を守るよう通達を出して対立したが、この年、忠相が[[寺社奉行]]に昇格したのは商人が裏で手を回すことによる敬遠人事であったとする説もある<ref>[[#RyogaeNendaiki-0|両替年代記(1932), p220-222.]]</ref><ref>[[#Kawai2006|河合(2006), p128-133.]]</ref>。 吹替えのうち元禄期、宝永期および天保期は財政再建を主目的とし、元禄期および元文期は通貨量増大の目的もあったとされるが、実質的に通貨量が増大したかについてはその意味や効果の究明を行わずに簡単に結論を出せるものではなく、例えば中国人は[[長崎市|長崎]]において日本の丁銀を南鐐銀である[[銀錠]]に改鋳して用い、これに伴い大坂の両替商など商人らの取引に於いても貨幣の素材価値を交換の媒体として重視し、当時の通貨の未発達な段階に於いて品位を低下させ名目価値を増大させても、実質価値としての通貨増大という経済的意義にはつながっていなかった<ref>[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p101-106.]]</ref>。また文政期のものは放漫財政の結果による赤字補填を主とするものであり{{Efn|文政元年に二分金改鋳の議が起こったときに、[[岡本花亭]]は勘定方の小吏として反対の意見を具申していれられず、そのまま職を退いている<ref>{{Cite book|和書|author=富士川英郎|year=1966|title=江戸後期の詩人たち|publisher=麥書房|page=129}}</ref>。}}、[[安政]]から[[万延]]期のものは1859年の開港に伴う小判流出を抑制する目的のものであった。 一方、[[正徳 (日本)|正徳]]・享保の吹替えは、貨幣の品位を上げ慶長金銀に戻すという異例のものであり、これは[[新井白石]]の「金銀の如き天地から生まれた大宝を人工を加えて質を落とすことは天地の理にもとるものである」「単なる経済上の計算に基づくものではなく天下の主たるものが発行する貨幣が粗悪なものであってはならない。悪質なものを出せば天譴をうけて天災地変を生ずるおそれがある。民の信頼を失わなければ天下を治めることができる<ref>[[#NihonnoRekishi1975|日本の歴史(1975), p74-77.]]</ref>」として本来品位である慶長金銀に復旧すると言うものであった。[[宝永小判|宝永金]]2両を新金1両と引替えるという[[デノミネーション]]的性格もあったが、戦国時代に最盛期を迎えた金山および銀山からの産出は寛永年間を過ぎたあたりから蔭りを見せ、元禄期にはすっかり低迷しており<ref>[[#Kobata1968|小葉田(1968), p51-52.]]</ref>、加えて多額に上る生糸貿易と中心とする金銀の流出により絶対的不足を来たし通貨量は減少し、次第にデフレ不況に陥ることになった。 === 小判の量目と品位の変遷 === {| style="white-space:nowrap" |[[慶長小判|慶長金]] |style="text-align:right"|(1601年)4.76匁 |<!-- 最上段 --><div style="float:left; width:201px; height:16px; background:#ffd700; text-align:center">[[金]]</div><div style="float:left; width:37px; height:16px; background:#dcdcdc; text-align:center">銀</div> |- |[[元禄小判|元禄金]] |style="text-align:right"|(1695年)4.76匁 |<!-- 2段目 --><div style="float:left; width:136px; height:16px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:102px; height:16px; background:#dcdcdc"></div> |- |[[宝永小判|宝永金]] |style="text-align:right"|(1710年)2.50匁 |<!-- 3段目 --><div style="float:left; width:105px; height:16px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:20px; height:16px; background:#dcdcdc"></div> |- |[[正徳小判|正徳金]] |style="text-align:right"|(1714年)4.76匁 |<!-- 4段目 --><div style="float:left; width:201px; height:16px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:37px; height:16px; background:#dcdcdc"></div> |- |[[享保小判|享保金]] |style="text-align:right"|(1714年)4.76匁 |<!-- 5段目 --><div style="float:left; width:206px; height:16px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:32px; height:16px; background:#dcdcdc"></div> |- |[[元文小判|元文金]] |style="text-align:right"|(1736年)3.50匁 |<!-- 6段目 --><div style="float:left; width:115px; height:16px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:60px; height:16px; background:#dcdcdc"></div> |- |[[文政小判|文政金]] |style="text-align:right"|([[1819年]])3.50匁 |<!-- 7段目 --><div style="float:left; width:98px; height:16px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:77px; height:16px; background:#dcdcdc"></div> |- |[[天保小判|天保金]] |style="text-align:right"|([[1837年]])3.00匁 |<!-- 8段目 --><div style="float:left; width:85px; height:16px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:65px; height:16px; background:#dcdcdc"></div> |- |[[安政小判|安政金]] |style="text-align:right"|([[1859年]])2.40匁 |<!-- 9段目 --><div style="float:left; width:68px; height:16px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:52px; height:16px; background:#dcdcdc"></div> |- |[[万延小判|万延金]] |style="text-align:right"|([[1860年]])0.88匁 |<!-- 最下段 --><div style="float:left; width:25px; height:16px; background:#ffd700"></div><div style="float:left; width:19px; height:16px; background:#dcdcdc"></div> |} === 丁銀の品位の変遷 === {| style="white-space:nowrap" |[[慶長丁銀|慶長銀]] |style="text-align:right"|(1601年) |<!-- 最上段 --><div style="float:left; width:200px; height:16px; background:#dcdcdc; text-align:center">[[銀]]</div><div style="float:left; width:50px; height:16px; background:#ffa07a; text-align:center">[[銅]]</div> |- |[[元禄丁銀|元禄銀]] |style="text-align:right"|(1695年) |<!-- 2段目 --><div style="float:left; width:160px; height:16px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:90px; height:16px; background:#ffa07a"></div> |- |[[宝永二ツ宝丁銀|二ツ宝銀]] |style="text-align:right"|([[1706年]]) |<!-- 3段目 --><div style="float:left; width:125px; height:16px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:125px; height:16px; background:#ffa07a"></div> |- |[[宝永永字丁銀|永字銀]] |style="text-align:right"|(1710年) |<!-- 4段目 --><div style="float:left; width:100px; height:16px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:150px; height:16px; background:#ffa07a"></div> |- |[[宝永三ツ宝丁銀|三ツ宝銀]] |style="text-align:right"|(1710年) |<!-- 5段目 --><div style="float:left; width:80px; height:16px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:170px; height:16px; background:#ffa07a"></div> |- |[[宝永四ツ宝丁銀|四ツ宝銀]] |style="text-align:right"|([[1711年]]) |<!-- 6段目 --><div style="float:left; width:50px; height:16px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:200px; height:16px; background:#ffa07a"></div> |- |[[正徳丁銀|正徳銀]] |style="text-align:right"|(1714年) |<!-- 7段目 --><div style="float:left; width:200px; height:16px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:50px; height:16px; background:#ffa07a"></div> |- |[[元文丁銀|元文銀]] |style="text-align:right"|(1736年) |<!-- 8段目 --><div style="float:left; width:115px; height:16px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:135px; height:16px; background:#ffa07a"></div> |- |[[文政丁銀|文政銀]] |style="text-align:right"|([[1820年]]) |<!-- 9段目 --><div style="float:left; width:90px; height:16px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:160px; height:16px; background:#ffa07a"></div> |- |[[天保丁銀|天保銀]] |style="text-align:right"|(1837年) |<!-- 10段目 --><div style="float:left; width:65px; height:16px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:185px; height:16px; background:#ffa07a"></div> |- |[[安政丁銀|安政銀]] |style="text-align:right"|(1859年) |<!-- 最下段 --><div style="float:left; width:35px; height:16px; background:#dcdcdc"></div><div style="float:left; width:215px; height:16px; background:#ffa07a"></div> |} === 鋳造高および改鋳高 === 以下は『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』に基づく明治2年(1869年)までの、金貨および銀貨の鋳造高および改鋳高である<ref name="Okurasho1875" />。享保銀までの丁銀は全て改鋳されているとする推定、および幕末期の金流出が考慮されていないなど、必ずしも正確とは云えないが参考値として挙げた。 {| class="wikitable" style="text-align:right; white-space:nowrap; font-size:small" !colspan="5" style="text-align:center; white-space:nowrap"|小判・一分判 |- ! !鋳造高 !改鋳高 !国外流出高 !世上流通高 |- !慶長金 |14,727,055両 |10,527,055両 |4,100,000両 |100,000両 |- !元禄金 |13,936,220両1分 |13,213,943両3分2朱 |523,736両 |198,540両1分2朱 |- !宝永金 |11,515,500両 |11,202,703両1分 |31,930両 |280,866両3分 |- !正徳金 |213,500両 |196,704両3分 | |16,795両1分 |- !享保金 |8,280,000両 |7,324,044両1分 |134,106両 |821,849両3分 |- !元文金 |17,435,711両1分 |14,278,251両 |155,548両 |3,001,912両1分 |- !文政金 |11,043,360両 |8,883,521両 | |2,159,839両 |- !天保金 |8,120,450両 |4,670,772両1分 | |3,449,677両3分 |- !安政金 |351,000両 |276,829両3分 | |74,170両1分 |- !万延金 |625,050両 | | |625,050両 |} {| class="wikitable" style="text-align:right; white-space:nowrap; font-size:small" !colspan="5" style="text-align:center; white-space:nowrap"|丁銀・豆板銀 |- ! !鋳造高 !改鋳高 !国外流出高 !世上流通高 |- !慶長銀 |1,200,000貫 |157,059貫 |1,042,941貫 | |- !元禄銀 |405,850貫 |326,045貫400目 |79,804貫600目 | |- !二ツ宝銀 |278,130貫 |278,130貫 | | |- !永字銀 |5,836貫 |5,836貫 | | |- !三ツ宝銀 |370,487貫 |370,487貫 | | |- !四ツ宝銀 |401,240貫 |401,240貫 | | |- !正徳銀 |331,420貫 |331,025貫 |395貫 | |- !元文銀 |525,465貫900目 |490,810貫730目 |489貫270目 |34,165貫900目 |- !文政銀 |224,981貫900目 |207,165貫 | |17,816貫900目 |- !天保銀 |182,108貫 |102,440貫 | |79,668貫 |- !安政銀 |102,907貫 |23,856貫 | |79,051貫 |} {| class="wikitable" style="text-align:right; white-space:nowrap; font-size:small" !colspan="5" style="text-align:center; white-space:nowrap"|定位金貨 |- ! !鋳造高 !改鋳高 !国外流出高 !世上流通高 |- !真文[[二分金|二分判]] |2,986,022両 |2,860,985両2分 | |125,036両2分 |- !草文二分判 |2,033,061両2分 |1,909,127両2分 | |123,934両 |- !文政[[一朱金|一朱判]] |2,920,192両 |2,901,939両1分3朱 | |18,252両2分1朱 |- !天保[[二朱金|二朱判]] |12,883,700両1分 |5,439,061両1分2朱 | |7,444,638両3分2朱 |- ![[五両判]] |172,275両 |125,445両 | |46,830両 |- !安政二分判 |3,551,600両 |1,441,471両 | |2,110,129両 |- !万延二分判 |53,240,576両 | | |53,240,576両 |} {| class="wikitable" style="text-align:right; white-space:nowrap; font-size:small" !colspan="5" style="text-align:center; white-space:nowrap"|定位銀貨 |- ! !鋳造高 !改鋳高 !国外流出高 !世上流通高 |- ![[五匁銀]] |1,806貫400目 |1,806貫400目 | | |- !明和[[南鐐二朱銀]] |5,933,000両 |5,460,500両 | |472,500両 |- !文政南鐐二朱銀 |7,587,000両 |7,474,800両 | |112,200両 |- !南鐐[[一朱銀]] |8,744,500両 |8,524,800両 | |219,700両 |- !古[[一分銀]] |19,729,100両 |8,719,000両 | |11,010,100両 |- !新一分銀 |28,480,900両 |101,300両 | |28,379,600両 |- !一朱銀 |9,952,800両 | | |9,952,800両 |- ![[二朱銀]] |88,300両 |81,600両 | |6,700両 |- !貨幣司一分銀 |1,066,833両2分 | | |1,066,833両2分 |- !貨幣司一朱銀 |1,171,400両 | | |1,171,400両 |} {| class="wikitable" style="text-align:right; white-space:nowrap; font-size:small" !colspan="5" style="text-align:center; white-space:nowrap"|銭貨 |- ! !鋳造高 !改鋳高 !国外流出高 !世上流通高 |- ![[寛永通寳]]銅一文銭 |2,114,246,283枚 |1,420,200,000枚 |600,000,000枚 |94,046,283枚 |- !寛永通寳鉄一文銭 |6,332,619,404枚 | | |6,332,619,404枚 |- !真鍮四文銭 |157,425,360枚 | | |157,425,360枚 |- !天保通寳 |484,804,054枚 | | |484,804,054枚 |- ![[文久永宝|文久永寳]] |891,515,631枚 | | |891,515,631枚 |- !寛永通寳鉄四文銭 |101,887,062枚 | | |101,887,062枚 |} 寛永通寳銅一文銭の鋳造高として挙げた数値は安政年間に回収され幕府庫に集積された数であり、実際にはこれより1桁多い。 == 両替相場の変遷 == {{右 |{{Vertical images list |幅=160px |1=Kanei-tsuho-kameido-tetsu.jpg |2=寛永通寳鉄一文銭 |3=Kanei-tsuho-to4-11nami.jpg |4=真鍮四文銭 |5=Tenpo-tsuho-chokaku.jpg |6=天保通寳百文銭 }} }} 幕府は慶長14年([[1609年]])に金1両=銀50目=[[永楽通宝|永]]1貫文=[[鐚銭|鐚]]4貫文、元禄の吹替え後に小判の相場を維持するため元禄13年([[1700年]])に金1両=銀60目=銭4貫文と改訂した御定相場を公布した。上納金など公的なものにはこの御定相場が守られたが、市場では江戸、大坂を中心として各地で相場が立てられ、両替商らは日々の相場に基づいて取引を行った<ref>[[#RyogaeNendaiki-2|両替年代記(1933), p221-227.]]</ref>。 江戸時代初期には金1両は銀43匁程度であったが、産銀の増大に伴い銀相場は下落傾向にあった。やがて金1両が銀60目前後で落ち着きを見せ始めたが、元禄の吹替えは品位は金貨が2/3、銀貨が4/5とアンバランスなものであったため、再び金1両が銀50目程度まで銀高に戻り、これを是正するための御定相場改訂であった。しかし市場は御定相場に従うようなものではなく、宝永期の銀貨吹替えによりようやく銀高が解消された<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p181-183.]]</ref>。 明和期に寛永通寳鉄一文銭および真鍮四文銭が大量に発行されるようになると銭相場は次第に下落し金1両が銭6貫文程度となり、天保通寳の発行は銭相場の下落に追い討ちをかけた。幕末にさらに天保通寳が大量発行され、明治維新の頃には金1両が銭10貫文程度に達した。 以下は『三貨図彙』『新稿 両替年代記関鍵 巻二考証篇』『日本史小百科「貨幣」』『日本史資料総覧』『近世後期における主要物価の動態』に基づく金銀両替相場および銭相場の変遷である<ref name="Kusama1815" /><ref name="Nishiwaki1999-328">[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p328-329.]]</ref><ref name="RyogaeNendaiki-2-285">[[#RyogaeNendaiki-2|両替年代記(1933), p285-362.]]</ref><ref>[[#Murakami1986|村上(1986).]]</ref><ref name=Mitsui1989 />。 [[File:Koban-Chogin-rate.png|400px|left|thumb|金銀両替相場の変遷 金一両に対する銀匁 赤の実線は御定相場]] [[File:Zeni-rate.png|400px|left|thumb|銭相場の変遷 金一両に対する文 赤の実線は御定相場]] {{-}} == 物価の変遷 == [[米価]]を例にとると、江戸時代初期は金1両で米が3〜4[[石 (単位)|石]]程度であったが、当時の産金および産銀の増大に伴い金銀とも相場が下落し、貨幣吹替えのなかった慶長金銀の流通時期であっても、[[明暦]]年間を過ぎたあたりから金1両が米1〜2石程度となった。元禄の吹替えによる貨幣品位の低下はこれに追い討ちをかけ、以後文政年間あたりまで金1両が米1石前後を維持した。 しかし、詳細に見れば宝永期の品位低下により米価は高騰し、逆に享保期は品位を上げる吹替えにより下落し、また[[冷害]]および病虫害による[[飢饉]]により一時的に米価が著しく高騰することもしばしばであった。[[天保]]期は深刻な飢饉が発生し、貨幣の品位が低下した上に名目貨幣的な計数貨幣が乱発され、[[諸色]]の高騰は顕著になった。特に[[寛永の大飢饉]]、[[享保の大飢饉]]、[[天明の大飢饉]]および[[天保の大飢饉]]による影響は顕著に現れている。 [[万延]]年間に小判流出を防止するため、[[天保小判]]に比べて[[万延小判|量目を約1/3に減量した小判]]が発行されるに至り、激しい[[インフレーション]]が発生することになった。 以下は『三貨図彙』『日本史小百科「貨幣」』『近世後期における主要物価の動態』に基づく米価の変遷である<ref name="Kusama1815" /><ref name="Nishiwaki1999-328" /><ref name=Mitsui1989 />。 [[File:Rice-rate.png|400px|left|thumb|米相場の変遷 米一石に対する銀匁]] {{-}} [[大光院]]の記録では[[元和 (日本)|元和]]2年4月([[1616年]])の物価は以下の様であった<ref>[[#Kusama1815|草間(1815), p759-760.]]</ref>。 * 銭183文:銀3匁(銭1貫文=銀16匁3分9厘=金約1分) * 米3[[斗]]5[[升]]:銀7匁(1石=銀20目=金1分1朱) * [[酒]]2升:48文 * [[豆腐]]9丁:36文 * [[布]]2[[反]]:銀4匁3分5厘 * (参考)金1両:銀64匁<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p129.]]</ref> 江戸において[[明暦の大火]]があった明暦3年([[1657年]])の物価は以下の様であった<ref>[[#Kusama1815|草間(1815), p776.]]</ref>。 * 銭1貫文:銀18匁 * 米27石6斗:銀1貫76匁(米1石=銀39匁=金約2分2朱) * [[大豆]]1石:銀37匁 * [[油]]1斗:銀30目 * 布1反:銀3匁5分 明和3年3月27日([[1766年]])、大坂における物価は以下の様であった<ref name=Mitsui1989 />。 * 金1両:銀63匁8分2厘 * 銭1貫文:銀15匁1分9厘(金1両=銭4201文) * [[肥後国|肥後]]米1石:銀60匁9分 * [[岡藩|岡]]大豆1石:銀74匁5分 慶應3年正月(1867年)、京都における両替相場および<ref name="RyogaeNendaiki-2-285" />、正月20日、幕末のインフレーション状況下の大坂における物価は以下の様であった<ref name=Mitsui1989 /> 。 * 金1両:銀107匁1分 * 銭1貫文:銀12匁6分6厘(金1両=銭8460文) * 肥後米1石:銀1貫213匁5分 * 岡大豆1石:銀810匁 == 計数銀貨の台頭 == {{右 |{{Vertical images list |幅=120px |1=Meiwa-nanryo-2shu.jpg |2=南鐐二朱銀 |3=Tenpo-1bugin.jpg |4=天保一分銀 }} }} 明和2年([[1765年]])、[[田沼意次]]の命により河合久敬が量目を固定した[[五匁銀]]を考案し、銀貨を両を基軸とする小判に結び付けようと模索した。五匁銀は失敗に終わるが、続いて明和9年([[1772年]])に発行された南鐐二朱銀は8枚をもって一両に交換することを明記し直接小判に結びつけたことから、次第に定着し流通する様になった。材料としては南鐐と呼ばれる上銀を使用しながらも、丁銀と比較すれば一両あたりの銀含有量は劣るものであった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p226-227.]]</ref><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p278-283.]]</ref>。 文政年間に入ると、次第に奢侈的な風潮が高まり幕府の財政も逼迫し、[[老中]]、[[水野忠成]]の命により二分判など小判に対し金含有量の劣る名目貨幣が乱発されるようになり、あからさまに吹替えによる出目を狙ったものであった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p230-234.]]</ref>。天保3年([[1832年]])には二朱判、天保8年(1837年)からは一分銀が多量に発行され、これらの金銀含有量はさらに劣るものとなった。一分銀の発行高は丁銀をはるかに凌ぐものとなり、嘉永6年([[1853年]])に一朱銀が発行されるに至り江戸時代後期は銀貨の計数貨幣化が進行し、一方で丁銀の流通は衰退し銀目取引は藩札および手形で代用されるなど名目化した。 明和年間の計数銀貨の発行を皮切りに、文政年間、天保年間を中心に、小判および丁銀に対して含有金銀量の劣る出目獲得を目的とした名目貨幣が多発され、文政年間以降はこのような定位貨幣の流通が大半を占めるようになった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p230-246.]]</ref>。 江戸時代の日本では、[[明和]]年間以前は、秤量貨幣の[[豆板銀]]があったにせよ、計数貨幣で考えれば、一般に[[一分金|一分判]]より低額の貨幣は[[寛永通宝]]一文銭しかなく(例外は元禄[[二朱金|二朱判]])、御定相場では1000倍もの開きがあった。これに対し、明和年間以降は、金貨単位の計数銀貨だけでなく金貨や銭貨も含めると、寛永通宝真鍮四文銭、[[南鐐二朱銀]]、天保・万延[[二朱金|二朱判]]、[[一朱銀]]、[[天保通宝]]などといった貨幣がいずれも計数貨幣として発行されたことにより、時代が下がるにつれて一分判(一分金。[[一分銀]]の発行以降は一分の額面の通貨は一分銀が中心となった)と寛永通宝一文銭の間が計数貨幣で埋まっていったという面もある。 == 三貨制度の終焉 == {{右 |{{Vertical images list |幅=120px |1=Kaei-1shugin.jpg |2=嘉永一朱銀 |3=Ansei-1bugin.jpg |4=安政一分銀 |5=Tomebun-2buban.jpg |6=万延二分判 }} }} [[嘉永]]6年([[1853年]])、[[浦賀]]沖の[[黒船来航]]により幕府は開港を迫られ、[[日米和親条約]]による[[安政]]6年(1859年)の[[横浜港]]の開港のため、日本貨幣と米国貨幣の交換比率の交渉が行われた。幕府側の双替方式の1ドルを1分で交換するという要求に対し、[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]の同質同量による1ドルを3分で交換するという要求が通ることになった。幕府側は1ドル銀貨の半分の量目に当たる[[二朱銀]]を発行して抵抗したが、二朱銀は発行量が極小で開港場でしか通用しないものであったため、米国大使らの反発に遭い撤回することとなった。この結果、一分銀と小判との間の擬似[[金銀比価]]1:5は欧米の金銀比価1:15に対し著しく金安であったため短期間のうちに大量の小判流出を招き、幕府は流出を防止するため、[[天保小判]]を3両1分2朱の増歩通用とし、量目を3割弱に下げた[[万延小判]]および[[二分金#万延二分判|さらに低品位の二分判]]を発行したため激しいインフレーションに見舞われることになった<ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p248-285.]]</ref>。 また開港時に幕府側は、米国大使らの1ドル銀貨の一分銀への両替要求に充分応じられなかった事から、慶應2年([[1866年]])の[[改税約書]]において幕府は国外から持ち込まれる金貨、銀貨および地金を日本貨幣に鋳造することを請求できる自由[[造幣局]]の設立を確約することとなった<ref>[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p166-168.]]</ref>。 倒幕後、明治新政府は幕府の交わした改税約書を引き継ぐこととなり、慶應4年5月9日(1868年6月28日)、新政府は銀目廃止を布告し、丁銀および豆板銀は廃止され通貨の両への一本化が図られた。この時期、日本国内には多種多様の貨幣が混在し、それぞれが額面でなく実質価値による相場で取引され、加えて[[贋造|贋造貨幣]]が横行していたことから、これらについても日本国外から改善を求められた。明治2年7月12日(1869年8月19日)、[[高輪談判]]において二分判を主とする贋造貨幣の処理について新政府と5カ国の駐日公使との間で交渉が行われ、近代貨幣制度の導入を公約することとなった。 明治4年5月(1871年6月17日)、新貨条例が公布され、新貨の通貨単位「([[円 (通貨)|圓]])」は両と等価とされたため新通貨単位への移行は比較的スムーズなものとなった。小判その他の金貨については分析に基づく金銀含有量により新貨幣(圓)との交換比率が設定され、これらは明治7年([[1874年]])9月までに新貨幣と引替えることとされた<ref>[[#Zaiseishi1905|明治財政史(1905), p388-399.]]</ref>。しかし、引換え期限は度々延期され、最終的な交換期限は明治21年([[1888年]])末であった<ref>[[#Zoheikyoku1971|造幣局(1971), p44.]]</ref>。銭貨については、新貨の通貨単位で通用価値が定められ(寛永通寳銅一文銭は1厘など)、引き続き少額貨幣としての役割を果たした。銭貨のうち寛永通寳鉄銭は[[明治]]6年([[1873年]])12月に、天保通宝は[[明治]]24年([[1891年]])末に通用停止となった。残りの寛永通寳銅一文銭・真鍮四文銭・文久永寳は、通貨として実際的に使用されたのは明治中期頃までと推定されるが、これらが正式に通用停止となったのは、[[昭和]]28年([[1953年]])12月末、[[小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律]]により円未満の硬貨・紙幣が全て通用停止とされた時で、これをもって江戸時代発行の貨幣は全て通用停止となったことになる<ref>[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p216-217.]]</ref>。 江戸時代に発行された様々な貨幣が明治維新以降どのような取り扱いを受けたのかは下表の通り。藩札および明治政府発行の両・分・朱単位の紙幣である[[太政官札]]・[[民部省札]]についても記す。 {|class="wikitable" |- !貨幣の種類 !明治維新以降の扱い |- ! 金貨(小判・分金・大判)<br>金貨単位の銀貨(一分銀など) | 明治7年(1874年) - 通用停止、純金および純銀の含有量によって定められた割合によって新貨との交換が開始される。<br> 明治21年(1888年) - 新貨との交換終了。ただし、国庫に対する公納の際には使用可とされる。<br> 明治32年(1899年) - 国庫に対する公納廃止、貨幣としての役割は完全に終了。 |- ! 丁銀・豆板銀・五匁銀 | 慶応4年(1868年) - 銀目廃止令により通用停止。銀品位に応じた割合([[安政丁銀]]の項目を参照)によって両・分・朱単位の金貨・銀貨との交換が開始される。<br> 明治7年(1874年) - 交換終了、地金扱いとなる。 |- ! 寛永通宝銅一文銭<br>寛永通宝真鍮四文銭<br>文久永宝 | 明治4年(1871年) - 太政官布告により新貨の単位による通用価値が定められる。寛永通宝銅一文銭:1厘、寛永通宝真鍮四文銭:2厘、文久永宝:1厘5毛。<br> 昭和28年(1953年) - 小額通貨整理法により通用停止。 |- ! 寛永通宝鉄銭 | 明治5年(1872年) - 太政官布告により新貨の単位による通用価値が定められる。鉄一文銭:1/16厘、鉄四文銭:1/8厘。<br> 明治6年(1873年) - 太政官からの指令で、勝手に鋳潰しても差し支えないとされ、事実上の貨幣の資格を失う。<br> 明治30年(1897年) - 貨幣法により正式に通用停止となる。 |- ! 天保通宝 | 明治4年(1871年) - 太政官布告により8厘通用と定められる。<br> 明治24年(1891年) - 通用停止。<br> 明治29年(1896年) - 交換停止。 |- ! 藩札・太政官札・民部省札 | 明治5年(1872年) - 新紙幣([[明治通宝]])発行開始に伴い通用停止、新紙幣との交換開始。交換割合は、藩札については藩の財政状態による当時の相場によって定められ、太政官札・民部省札は1両=1円で交換される。<br> 明治12年(1879年) - 交換停止。 |- |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=青山礼志 |title=新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド |edition= |series= |volume= |publisher=ボナンザ |date=1982 |isbn= |ref=Aoyama1982}} * {{Cite book|和書|author=小葉田淳|authorlink=小葉田淳 |title=日本の貨幣 |edition= |series= |volume= |publisher=[[至文堂]] |date=1958 |isbn= |ref=Kobata1958}} * {{Cite book|和書|author=小葉田淳 |title=日本鉱山史の研究 |edition= |series= |volume= |publisher=[[岩波書店]] |date=1968 |isbn= |ref=Kobata1968}} * {{Cite book|和書|author=久光重平 |title=日本貨幣物語 |edition=初版 |series= |volume= |publisher=[[毎日新聞社]] |date=1976 |asin=B000J9VAPQ |ref=Hisamitsu1976}} * {{Cite book|和書|author=今村啓爾 |title=富本銭と謎の銀銭 -貨幣誕生の真相- |publisher=小学館 |date=2001 |isbn=978-4-09-626124-8 |ref=Imamura2001}} * {{Cite book|和書|author=草間直方 |title=三貨図彙 |publisher= |date=1815 |ref=Kusama1815}} * {{Cite book|和書|author=河合敦|authorlink=河合敦 |title=なぜ偉人たちは教科書から消えたのか |publisher=[[光文社]] |date=2006 |isbn= |ref=Kawai2006}} * {{Cite book|和書|author=三上隆三|authorlink=三上隆三 |title=江戸の貨幣物語 |edition= |series= |volume= |publisher=[[東洋経済新報社]] |date=1996 |isbn=978-4-492-37082-7 |ref=Mikami1996}} * {{Cite book|和書|author=村上 直、高橋 正彦 |title=日本史資料総覧 |edition= |series= |volume= |publisher=[[東京書籍]] |date=1986 |isbn= |ref=Murakami1986}} * {{Cite book|和書|author=滝沢武雄|authorlink=滝沢武雄 |title=日本の貨幣の歴史 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=1996 |isbn=978-4-642-06652-5 |ref=Takizawa1996}} * {{Cite book|和書|author=瀧澤武雄,西脇康 |title=日本史小百科「貨幣」 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1999 |isbn=978-4-490-20353-0 |ref=Nishiwaki1999}} * {{Cite book|和書|author=田谷博吉 |title=近世銀座の研究 |publisher=吉川弘文館 |date=1963 |isbn=978-4-6420-3029-8 |ref=Taya1963}} * {{Cite book|和書|editor=大蔵省造幣局 |title=貨幣の生ひ立ち |edition= |series= |volume= |publisher=[[朝日新聞社]] |date=1940 |isbn= |ref=Zoheikyoku1940}} * {{Cite book|和書|editor=大蔵省造幣局 |title=造幣局百年史(資料編) |publisher=大蔵省造幣局 |date=1971 |isbn= |ref=Zoheikyoku1971}} * {{Cite book|和書|editor=大蔵省 |title=新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書 |edition= |series= |volume= |publisher=大蔵省 |date=1875 |isbn= |ref=Okurasho1875}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994141 近代デジタルライブラリー] * {{Cite book|和書|editor=明治財政史編纂会 |title=明治財政史(第11巻)通貨 |edition= |series= |volume= |publisher=明治財政史発行所 |date=1905 |isbn= |ref=Zaiseishi1905}} 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