江夏弘

提供: testwiki
ナビゲーションに移動 検索に移動

テンプレート:Infobox Scientist 江夏 弘(えなつ ひろし、1922年大正11年)9月12日 - 2019年令和元年)8月4日)は、日本理論物理学者立命館大学名誉教授学位理学博士。専門は素粒子論

場の量子論において、相対論ハミルトン形式に貢献した。

学術研究

江夏は、場の量子論の相対論的なハミルトン形式における交換関係[1]

[ψ(x,τ),ψ*(x,τ)]=δ(xx)

ϵ(xx)ϵ(ττ)=1,

の下で、場の量子論の従来の非相対論的なそれと等価であることを発見した[2]。 ここで、

[ψ,ϕ]=ψϕϕψ交換子x時空座標、τ固有時ψ*ψエルミート共軛δ(x)ディラックのデルタ函数

である。ここで、ϵ(x)0<x に対して ϵ(x)=1 となり、x<0 に対して ϵ(x)=1 となるような或る階段函数である。

生涯

生い立ち

宮崎県都城町(現:都城市)において、曾祖父の江夏計佐吉、祖父の江夏岩吉、宮崎県酒類販売会社社長[3]であった父の江夏栄蔵と母の(黒岩)フミの長男として[4]生まれる。 旧制の鹿児島県立第一鹿児島中学校(現:鹿児島県立鶴丸高等学校[5]を四年修了[6]し、旧制の第七高等学校造士館に入学する[7]

湯川秀樹との出会い

江夏の七高在学中に、湯川秀樹が鹿児島を訪れ中間子論の講演をする。そのときの講演を聴き、湯川や中間子論に興味を抱き、旧制の京都帝国大学理学部に進学する。京大での卒業研究の指導教授はもちろん湯川であり、卒業論文のテーマは中間子論であった。1944年卒業後、旧制の大学院に進学し、湯川の下で研究を開始する[8]。1946年から1957年まで江夏は湯川研究室[9]の助手であった。

湯川のノーベル賞受賞直後に出版された『随想 湯川秀樹』[10]の中で「湯川先生をめぐって」を執筆している。1952年から1953年にかけて、コロンビア大学フルブライト・プログラムで留学した[11][12]。1953年、京都大学から理学博士の学位を授与される[13]

ニールス・ボーアとの出会い

1955年から1956年にかけて、デンマークのニールス・ボーア研究所に国費留学生として派遣される[14]。70歳を過ぎたニールス・ボーア自身が学生の面倒を直接見ることはあまりなかったが、週一回ボーアが研究所に来るたびに、江夏はニールス・ボーアに直接質問が許されるという厚遇であった[15][16]

立命館大学教授

江夏は1957年に立命館大学理工学部教授となり[17]、引き続き湯川の下で指導を受ける。1971年度には理工学部長も務めたテンプレート:R。1988年3月に立命館大学を定年退職し、名誉教授となるテンプレート:R。1997年、勲三等瑞宝章受章[18]2019年8月4日、京都市内の病院にて96歳で没したテンプレート:R

学風と見識

テンプレート:出典の明記 謙虚な人柄で、なおかつ厳密な学風であった。他人の研究を評価する鑑定眼は群を抜いており、その真贋を原石の段階で見抜く眼力があった。研究評価能力・査読能力においても、風貌においても、マックス・プランクを連想させる人であった。江夏にとって、解析力学量子力学のための準備ではなく、量子力学の方がむしろ解析力学の発展形態であった。解析力学に対する造詣がとりわけ深く、当時の世界標準であったゴールドスタインの「古典力学」や日本で最も普及していた原島鮮の「力学」よりも、ゾンマフェルトの「力学」やランダウ理論物理学教程の「力学」の方を評価しており、中でも山内恭彦の「一般力学」を最も高く評価していた。

脚註

テンプレート:Reflist

研究論文(英文)

場の量子論における相対論的な不変形式 など。

素粒子論研究・大学紀要(和文)

参考文献

テンプレート:People-stub テンプレート:Normdaten