クオリア

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テンプレート:Otheruses テンプレート:複数の問題

この画像を見る者の網膜には波長 630-760 nm の成分の際立つ光が十分な密度で届くはずであり、このときいわゆる「赤色」に対応するクオリアを体験するであろう。テンプレート:Efn2

クオリアテンプレート:Lang-en〈複数形〉、テンプレート:En〈単数形〉)または感覚質とは、『脳科学辞典』によれば、感覚的な意識経験のことテンプレート:Sfn、意識的・主観的に感じたり経験したりするのことテンプレート:Sfnテンプレート:Efn2。『広辞苑』によるとクオリアは「感覚的体験に伴う独特で鮮明な質感」であり、「脳科学で注目される」概念であるテンプレート:Sfn

神経科学者土谷尚嗣らの論文によれば、クオリア(主観的意識)は理数系学問自然科学)で観測解明できないという見解が哲学心理学認知科学などから多く出ているテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。一方で神経科学などからは、クオリアを観測し解明を進めている研究が複数発表されているテンプレート:Sfnテンプレート:Sfnテンプレート:Sfnテンプレート:Efn2

概要

笛から発せられた空気振動(音)が、笛の音のクオリア「ピー」を発生させるまでの流れ(左端:笛、青:音波、赤:鼓膜、黄:蝸牛、緑:有毛細胞、紫:周波数スペクトル、橙:神経細胞の興奮、右端:笛の音のクオリア)。

辞事典による定義・解説

2016年、『脳科学辞典』で神経科学者の土谷尚嗣が執筆した項「クオリア」によると「脳科学では、クオリアはなんらかの脳活動によって生み出されていると考える」テンプレート:Sfn。また前掲書には、「哲学者は長くクオリアについて論じてきたが、クオリアという概念意味があるかどうかですら、意見が分かれている」とあるテンプレート:Sfn

2009年、『スタンフォード哲学百科事典』で哲学者のマイケル・タイが言うにはクオリアとは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面である[1]

2000年代後半~2010年代の研究事例

解析とデータ化

2009年に精神科医・神経科学者ジュリオ・トノーニ計算神経科学者デイヴィッド・バルドゥッツィは、意識の統合情報理論に基づく学術論文「クオリア:統合情報の幾何学」を発表したテンプレート:Sfn。この論文は幾何学的手法によって、クオリアの複合体である「クオリア空間(“qualia space”、略称は“Q”)」を、「神経生理学データ(“neurophysiologic data”)」として計測したテンプレート:Sfn。前掲論文は例えば、次の通り述べているテンプレート:Sfnテンプレート:Quote

2017年に神経科学者・医用工学者ロジャー・D・オープウッドの学術論文は、「ECoGデータ(皮質脳波検査データ)」およびガンマ波振動とアトラクターを解析して、「クオリアは高確率で局所的皮質ネットワーク内における情報処理の結果である」と述べているテンプレート:Sfnテンプレート:Efn2

2018年にIBM社が出願した情報工学特許技術では「疲労気分、および疼痛苦痛の重症度」等といったクオリアを、「クオリアデータ(“qualia data”)」として情報処理しているテンプレート:Sfn

1990年代~2000年代前半の研究事例

テンプレート:正確性

解析の試み

茂木健一郎は1997年に『脳とクオリア』を出版しテンプレート:Sfn、2002年にはその改訂版("updater")をWebページとして公開したテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。茂木のWebページによれば、クオリアは「私たちのが感じることのできる質感」であるテンプレート:Sfnテンプレート:要出典科学。クオリアは2種類あり、一つは「ユニークで独立したある種の感じ」としての「感覚的クオリア」、もう一つは「『何かに向けられている』感覚」としての「志向的クオリア」だというテンプレート:Sfnテンプレート:要出典科学

茂木は2001年の『日本ファジィ学会誌』の論文で、クオリアの定量的研究について次のように述べているテンプレート:Sfnテンプレート:Quote

もしクオリアに関して物質的過程でない「隠れたパラメータ」を主張するならば、それは「心脳二元論を唱えているに等しい」、と茂木は言うテンプレート:Sfn物質系には、原因と結果の「因果的必然性」があるテンプレート:Sfn。客観的な物質系は、定量的な変数位置速度運動量など)によって決定されており、これが物質系の「因果的必然性」であるテンプレート:Sfn。主観的なクオリアの「因果的必然性」は、物質系の「因果的必然性」に従っているテンプレート:Sfn。そして物質系の「因果的必然性」を表現する際は、定量的な記述(微分方程式差分方程式行列力学セルオートマトン経路積分など)が使われているテンプレート:Sfn。茂木によればクオリアの「因果的必然性」も、同様に厳密な原理に基づいているが、これを表現する記述方法はまだ見つかっていないテンプレート:Sfn

なお、クオリアがニューロン活動に伴う現象として数学的形式化(定量化)されクオリア問題が解決されていくと、ヴィトゲンシュタイン以来の「言語論的転回」が起きると茂木は述べているテンプレート:Sfn。「ニューロンの活動も究極的にはシュレディンガー方程式のような定量的な法則によって支配されている」が、「そもそもニューロン活動を客観的に記述している時に用いている数学的フォーマリズムテンプレート:Interpとクオリアがどのような関係にあるのかが明らかにされなければ、問題の本質的な解決にならないだろう」テンプレート:Sfn。例えば数学的言語の一つに、「シュレディンガー方程式」があるテンプレート:Sfnテンプレート:Efn2。これに対しクオリアは「一見数学的フォーマリズムテンプレート:Interpに乗らず、一切の定量化を拒否しているかのように見える」テンプレート:Sfn。しかし人間の認知過程上では、「シュレディンガー方程式」は《白いクオリア(背景色)の上にある黒いクオリア(文字色)》として認知されているテンプレート:Sfn。つまりクオリアを表現しているという点では、自然言語として表現される風景(「木漏れ日」等)も、数学的言語として表現される「シュレディンガー方程式」も同様であるテンプレート:Sfn

つまりクオリアの表現という点から考えれば、実は「数学的言語」と「自然言語」との間に本質的な差は無いテンプレート:Sfn。クオリアが数学として解明されていけばテンプレート:Sfn、人間の知性(すなわち数学的言語と自然言語)を基礎から再検討することが近い将来必要になる、と茂木は結論しているテンプレート:Sfn

その他

クオリアの問題は説明のギャップ、「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム[2]などと呼ばれている。

歴史

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まず1929年、哲学者クラレンス・アーヴィング・ルイスが著作『精神と世界の秩序』[3]において現在の意味とほぼ同じ形でクオリアという言葉を使用した。

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その後、1950年代から1960年代にかけて、ルイスの教え子であるアメリカの哲学者ネルソン・グッドマンらによってこの言葉が広められた[4]

1974年、主観性の問題に関する有名な論文が現れる。アメリカの哲学者トマス・ネーゲルが提示した「コウモリであるとはどのようなことか」という思考実験において[5][6]、物理主義は意識的な体験の具体的な表れについて、完全に論じ切れていない、という主張が強く訴えられた。1982年にはオーストラリアの哲学者フランク・ジャクソンが、マリーの部屋という思考実験を提唱し、普通の科学的知識の中にはクオリアの問題は還元しきれないのではないか、という疑念が提唱された[7]テンプレート:要出典

こうした流れの中で最も強い反響を得たのは、オーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズの主張である。1995年から1997年にかけてチャーマーズは一連の著作[2]テンプレート:Sfnを通じて、現在の物理学とクオリアとの関係について、ハードプロブレム哲学的ゾンビといった言葉を用いて非常に強い立場での議論を展開する。テンプレート:要出典

その後、ツーソン会議 (1994年-) や意識研究学会 (1994年-) などの国際的な研究会・学会も継続的に開催され、Consciousness and Cognition (1992年-) , Journal of Consciousness Studies (1994年-) , Pysche (1994年-) といった意識を専門的に扱う学術雑誌も号を重ねる。そして意識の問題を扱った数多くの書籍が出版されていく。テンプレート:要出典

テンプレート:要出典

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様々なクオリア

テンプレート:複数の問題 テンプレート:要出典以下に、独特の質感を持つ、つまりクオリアを持つと多くの人が考えるものの例をあげるテンプレート:Efn2

エルンスト・マッハが座椅子に腰かけ、左目だけを開けていたときの視覚体験。中央付近には右手に持った鉛筆、上にはマッハの眉毛、右側にはマッハ自身の鼻が、下にはマッハ自身の口ひげが描かれている。
視覚体験
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聴覚体験
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言語体験
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触覚体験
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この形の分子を吸い込むと、メントールの香り、いわゆるミントの香りがする。
嗅覚体験
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味覚体験
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痛覚
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テンプレート:要出典

テンプレート:要出典

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定義と性質

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Daniel Dennett はクオリアの要因として4つの特性を示した。 これによるとクオリアはつぎの4性質を備える。

  • INEFFABLE, 言葉で表せない - 他者と伝達できない。その体験そのもの以外の何物によっても捉えられない。
  • INTRINSIC, 内在的である - 相対的とか相関的なものではない。その体験自体とは別なこととの関係に依存しない。
  • PRIVATE, 本人にしかわからない - クオリアについて人間相互で系統的に比較することはできない。
  • directly or immediately apprehensible by consciousness, 知覚によって直接ないし即座に捉えられる - クオリアを体験することは、クオリアを体験する者を知り、なおかつそのクオリアについて知るべきすべてを知ることである。

クオリアがどういったものかであると定義するかには様々な考え方があるが、おおよそ次にあげるような性質があるものとして議論される。

言語化不可能(テンプレート:Lang-en-short
テンプレート:要出典
誤り不可能(テンプレート:Lang-en-short
テンプレート:要出典
私秘的(テンプレート:Lang-en-short
テンプレート:要出典

クオリアに関する思考実験

テンプレート:複数の問題

逆転クオリア (Inverted qualia) 同じ波長の光を受け取っている異なる人間は同じ「赤さ」を経験しているのか

クオリアの問題を扱った思考実験に以下のようなものがある。

逆転クオリア
同等の物理現象に対して、異質のクオリアがともなっている可能性を考える思考実験。色についての議論が最も分かりやすいため、色彩について論じられることが最も多い。同じ波長の光を受け取っている異なる人間が、異なる「赤さ」または「青さ」を経験するパターンがよく議論される。逆転スペクトルとも呼ばれる[8]
哲学的ゾンビ
テンプレート:要出典
マリーの部屋
テンプレート:要出典
コウモリであるとはどのようなことか
コウモリはどのように世界を感じているのか。コウモリは口から超音波を発し、その反響音をもとに周囲の状態を把握している(反響定位)。コウモリは、この反響音をいったい「見える」ようにして感じるのか、それとも「聞こえる」ようにして感じるのか、または全く違ったふうに感じるのか(ひょっとすると何ひとつ感じていないかも知れない)。こうしてコウモリの感じ方、といったことを問うこと自体は可能だが、結局のところ我々はその答えを知る術は持ってはいない。このコウモリの議論は、クオリアが非常に主観的な現象であることを論じる際によく登場する[5][6]

テンプレート:-

自然科学との関係

テンプレート:複数の問題 テンプレート:要出典そしてテンプレート:要出典

テンプレート:要出典

テンプレート:要出典

この現在の自然科学からは抜け落ちている残されたポイント、すなわち「物理的状態がなぜ、どのようにしてクオリアを生み出すのか」という問題について、哲学者ディビッド・チャーマーズは1994年、ツーソン会議という意識をテーマとした学際的なカンファレンスで「それは本当に難しい問題である」として、その問題に「ハード・プロブレム」という名前を与えた[9]

向精神薬や大脳皮質への電気刺激の実験などからも分かるように、「脳の物理的な状態」と「体験されるクオリア」の間には因果関係があると推測される。しかしながらそれが具体的にどのような関係にあるのかはまだ明らかではない。この「脳の物理的な状態」と「体験されるクオリア」がどのような因果関係にあるのか、という問題に対しては、抽象的ではあるが様々な仮説が提唱されている[10]。こうした「クオリアを整然とした自然科学(とりわけ物理学)の体系の中に位置づけていこう」という試みは、クオリアの自然化テンプレート:Lang-en)と呼ばれ、心の哲学における重要な議題のひとつとなっている[11]

クオリアに関する様々な立場

テンプレート:複数の問題 クオリアに関する議論は様々な論点が知られている。なかでも最も大きな論争となるのは、クオリアは現在の物理学の中でどこに位置づけられるのかという、形而上学的・存在論的な位置づけについての哲学的な議論である。この問題に対する考え方や分類は論者によって様々であり、一概に分類することはできない。しばしば、各人の立場は物理主義から二元論までの段階的なスペクトルのどこかに位置づけられるとも言われる。ここでは簡単に心身問題の伝統的な三つの立場、物理主義的立場(いわゆる唯物論的立場)、そして二元論的立場、そして観念論的立場、の三つに分けて説明する。現在の議論の中心は主に物理主義的な立場と二元論的な立場の間で行われている。哲学的な立場に関するより詳細な分類についてはチャーマーズによるA, B, C, D, E, Fの6分類[12]などがある。

物理主義的立場

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この立場を取る世界的に有名な論者としてフランシス・クリック[13]ダニエル・デネット[14]、チャーチランド夫妻(パトリシア・チャーチランドポール・チャーチランド)が、また日本語圏で有名な論者として信原幸弘[15]金杉武司[16]がいる。この立場ではフロギストンカロリック生気といった科学史上の誤りを例にとって、クオリアもそうした例のひとつに過ぎないと考える。物理主義的立場には、同一説機能主義消去主義表象説高階思考説など様々なバージョンがある。

志向説(表象説)

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二元論的立場

テンプレート:Main テンプレート:要出典

テンプレート:要出典

ジュリオ・トノーニの 意識の情報統合理論によれば、脳内で強く統合されたエレメント(皮質のミニコラム程度の大きさの要素)の特定の集まりが、コンプレックスと呼ばれる情報的な結合体を形成し、そのコンプレックス内での各エレメントの発火が単一のクオリアと非常に近い形で対応する、とする。そして、瞬間瞬間の意識体験は高次元空間(クオリア空間)上の一点で指定されるとする[17]
ペンローズハメロフが提唱した客観収縮理論によると、波動関数が収縮する際に、意識体験(クオリア)が生まれる、とされる。

物理学拡張派

クオリアは現在の物理学に含まれていないから、クオリアを含んだより拡張された物理学を作ろう、という立場。世界的に有名な論者としてデイビッド・チャーマーズテンプレート:Sfnロジャー・ペンローズ[18]が、またペンローズの流派に属する日本語圏で有名な論者として茂木健一郎[19]がいる。この立場には二つの違った流れがある。

1. 情報に注目する立場
クオリアと物理現象の間をつなぐ項として、情報に注目している一連の研究の流れがある。ジョン・アーチボルト・ウィーラーの 「テンプレート:Lang」(すべてはビットからなる)という形而上学に影響を受けて主張されたデイビッド・チャーマーズ情報の二面説テンプレート:Lang-en)や、ジュリオ・トノーニ意識の情報統合理論[17]のような数学的な構成を持った理論がある。トノーニは意識の単位はビットだと主張する。
2. 量子力学に注目する立場
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クオリアと量子力学における観測問題との間に何らかの関係があるのではないか、と考える一連の研究の流れがある。しばしば量子脳理論と一括りで表現されることもあるが、そうした理論の中で最も有名なものとして、ロジャー・ペンローズスチュワート・ハメロフの提唱する波動関数の客観収縮理論(Orch-OR Theory)がある[20][21]。この理論によれば、脳内でチューブリンというタンパク質波動関数が収縮する際に、意識体験(クオリア)が生まれる、とされる。そしてこの収縮が連続して継起することで意識の流れが生み出される、とされる。ただこれは理論物理学者が思考例として提示した仮説に過ぎないものであり、その内容はまだいたって概念的なものであって、数式や方程式の形で具体的に示されているわけではない。

ニューミステリアン

テンプレート:Main テンプレート:要出典

代表的な論者にトマス・ネーゲルコリン・マッギン[22]スティーブン・ピンカーなどがいる。ネーゲルは意識の主観性の問題を解決するには、宇宙に関する見方を根本的に変えるような概念枠の変化がない限り無理だろう、と考える[23][24]。マッギンは、人間という種が持つ固有の認知メカニズムはある一定の能力的限界を持っており、そのキャパシティを超えた問題が人間には把握できない、という認知的閉鎖テンプレート:Lang-en)の概念を軸に置く。そして意識の問題はそうした私たち人間のキャパシティの範囲を超えた問題、つまり解決できない問題なのだと考える。

観念論的立場

テンプレート:Main 主観性を思考の出発点に置きつつ物理主義と二元論の間の対立の構図を批判する立場がある。この立場から主張される主な論点として、物理主義も二元論もともに客観的な物理的実在を最初から前提している事についての批判、がある。たとえばマックス・ヴェルマンズテンプレート:Lang)は再帰的一元論テンプレート:Lang-en)と呼ぶ自身の立場の中で(2008年、テンプレート:Lang[25]、客観的な物質概念は意識体験から得られたものであり、客観的な物質概念を最初から前提している立場は、それが物理主義的立場であれ二元論的立場であれ、そもそもの議論の前提がおかしいと主張する。こうした立場からの分析は現象学的アプローチ(Phenomenological approach)とも呼ばれる。

日本語圏では永井均がこれと似た主張を行う[26][27]。永井は客観的な物質概念はもとより、現象意識という概念も一種の構成概念であるとし、まずあるのはたった一つの自分の主観性(永井は<私>、「これ」などと書く)だけである点を強調する。加えて永井は主観的な意識の問題は、「現在であること」(現在性、now)、「現実であること」(現実性、actuality)などと同じ、内容的規定性を持たないという点からくる問題だとする(「今」が人によって違っても何も違うと言える所がない、この世界が実在の世界でなくただの可能世界であっても何も違うと言える所がない、この世界から<私>が消え去っても何も違うと言える所がない)。それゆえに、この問題は真性の問題ではあるけれども、にもかかわらず公共的な言語の上では語ることができないもの(ウィトゲンシュタインが言うところの「語り得ないもの」)であり、言語で取り扱えないものだとする。

科学者

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NCC 探索の基盤となる枠組み。散歩しているイヌ(一番左)を見ている人(左から二つ目)の脳内で起きている様々な神経細胞の興奮(左から三つ目)の集まりのうち、その一部がNCCとして(図中の丸で囲まれている部分)、心に浮かぶイヌの像(一番右)つまり主観的な意識体験を生み出す役割を担っている、とする。クリストフ・コッホに代表される一部の神経科学者たちは、こうした考え方のもと、NCCを発見・同定することを目指して研究を行っている。

科学の立場からの研究においては、上に述べたようなクオリアに関する存在論的な議論(「この世界に本当にあるのは何か?」という議論)には直接関わらないのが一般的である。神経科学分野の有名な(非常に分厚い)教科書 カンデルPrinciples of Neural Science では意識の主観性の問題に数ページを割いている。そこでは、科学者にはハードプロブレムに直接取り組む前にやるべき事がまだ数多くあるのでそこを研究していけばよい、ということを科学者としての一つの一般的姿勢として示している[28]フランシス・クリックは「ハードプロブレムに直接取り組むべきでない」こと、またクリストフ・コッホは「意識の神経相関物と意識体験の関係を仮定せず」に研究を行うことを書いている[29]。こうした科学者の主張する内容にはいくつかの点があるが、主に次のようなものがある。

  • 意識の問題は実証的な科学の問題であり、哲学者がやるような椅子に腰掛けて思考実験や概念分析を繰り返すだけで前に進む問題ではない。
  • 哲学者は歴史的に多くの問題を提起してきたが、それを自分たちで解決できたことはない。哲学者が議論を通して生み出す色々な概念は一定の有用性があるけれども、それだけではダメであり、意識について科学的に地道に研究していく必要がある。
  • 意識についての科学研究はまだほとんど進んでいない。科学的に調査出来ることがまだまだ膨大にある現状で、たとえば新神秘主義のように意識の問題は解決できないといった立場を主張することなどは、時期尚早である。

こうした考えを背景に科学者は意識体験に関する実証的な調査・研究を進めている。

意識に相関した脳活動の探索

意識と相関するニューロン(意識に相関した脳活動テンプレート:Lang 特定の意識体験を起こすのに必要な最小のニューロンのメカニズムとプロセス)を同定していく研究[30]。クリストフ・コッホ[31]が有名である。

事例・症例の研究

これはNCCの研究と並行するが、盲視半側空間無視共感覚幻肢痛、といった様々な事例・症例の調査・研究をもとに質感の問題にアプローチしていくスタイル。ラマチャンドラン[32]が有名。

一般に科学者たちは哲学的な意味での自身の立場ははっきりと主張しないことが多い。科学者ならば全員が物理主義者なのだろう、とも思うかもしれないが、別にそういう分けではなく、各人のクオリアに対する哲学的な立場は様々である。たとえば運動準備電位の研究で有名なベンジャミン・リベットや、また睡眠の研究者であるジュリオ・トノーニのように、自然主義的二元論的な意識についての理論を発表している者もいるし、またヴィラヤヌル・ラマチャンドランのように自分は中立一元論者だとはっきり哲学的なポジションを明言しているような科学者もいる。

論点

テンプレート:複数の問題 クオリアという主題には数多い論点があり、その全体をここで網羅しきることはできない。幾つかの代表的な論点を挙げる。

まず有名な論点として「そもそもクオリアなんてない」という非常に根本的な反論がある。こうした主張を強く行う人物として有名な哲学者としてダニエル・デネットがいる[33]。デネットの立場は消去主義的唯物論Eliminative materialism)、または消去主義(Eliminativism)と言われる。デネットが行う主張を左側として、デネットがその論敵としている対立側を右側として、両サイドがどういった点で対立し、そしてどういう点では一致しているのか、その状況を以下に簡単に一覧する。

感覚質などない 感覚質はある
脳のすべての過程は物理的・科学的な方法で説明、解明できる。 脳のすべての過程は物理的・科学的な方法で説明、解明できる。
それで、もう説明されずに残るものなどない。それで意識の全てが説明される。 それでも説明されずに残るものがある。それがクオリアである。
脳の過程で説明されないクオリアというのが何のことなのか、分からない。右のような考えは素朴な直感に基づいた、誤った考え、単なる錯覚である。 脳の過程より何より、クオリアが在ることほど、確実なことはない。左のような主張はどこかで現象性を密輸入しているか、自己欺瞞であるか、または神経系における何らかの機能的障害であろう。
右のような奇妙な事をこれほど自信満々に言う人たちが、一体なぜいるのか。これには何らかの科学的な説明が必要だろう。 左のような奇妙な事をこれほど自信満々に言う人たちが、一体なぜいるのか。これには何らかの科学的な説明が必要だろう。
現象判断の過程、つまりクオリアについて判断している神経過程について科学的に研究すべきである。 現象判断の過程、つまりクオリアについて判断している神経過程について科学的に研究すべきである。

デネットからすると、クオリアがある、などという主張は錯覚でしかなく、ハードプロブレムは完全な擬似問題である。しかし質感があると確信している側は、この問題を「錯覚」として消去しようという主張は、あり得ないとして拒絶する。この点についてデネットは、これほど強い錯覚が生じるのは、それを担っている一定の神経基盤があるからだろうと論じる。心理学者ニコラス・ハンフリーもデネットと似た立場を取る[34]。ハンフリーによれば、ヒトにとって意識が不可解に思えるのは、そういう錯覚を生み出す機構が脳内にあるからであり、そして「不可解に思えること」それ自体が進化的な意味を持っている、とする。つまり意識が不可解に思えるという錯覚が、不滅の霊魂や来世といった信念の余地を残し、それにより知性を持った人間を完全な絶望からくる自殺から遠ざける、といった意味を持っただろうとする。つまり「意識を不可解であると誤解する機能」からの適応度の向上(残される子孫の数の増加)への寄与があったのではないか、とする。

逆にネド・ブロックなどは、デネットは認知に関わるある種の機能障害を持っているのではないか、という可能性を指摘する。ブロックがこうした主張を行う背景には一定の経験がある。ブロックは自身の教員としての経験から、現象性の問題を理解できない人が、なぜかは分からないが一定数いる、と語っている。ブロックによれば、大学初年度の学生に逆転クオリアの思考実験について説明すると、およそ3分の2の学生は「何を言ってるか分かる」と答えると言う。中には小さいころから自分でその問題を考えていた、という学生もいるという。しかし残りの3分の1の学生は「何の話をしているのか分からない」と答えると言う。ブロックは逆転クオリアの思考実験は、10歳に満たない自分の娘でも理解できたのに、なぜ一部の大学生に理解できないなどという事があるのか、と疑問を持つ。そしてブロックは、ある種の認知的な機能の違いが、現象性の問題の理解を妨げてるのではないかという可能性を指摘する。そしてそうした人の中から、デネットのような主張を行う人が出てくるのではないか、とする。そして、こうした機能的差異は実験的に研究できる対象であろうから、逆転クオリアのようなある種の思考実験への反応と、他のファクターとの相関を取って研究することが可能ではないか、と指摘するテンプレート:Sfn

こうして両サイドの主張は真っ向から食い違っているものの、現象判断の過程、つまりクオリアについて判断している神経過程について科学的に研究することが重要だ、という点では、両サイドにいる多くの論者の考えは一致している。

関連する話題

テンプレート:複数の問題

意識メーター

クオリアの科学はどのようにすれば可能なのか。科学的方法論に基づいてクオリアを扱おうとすると出会う最大の困難は、実験で直接クオリアを測定できないことである(将来的にどうであるのかについてはクオリアに対して取る哲学的立場により帰結は異なる。物理主義的立場なら原理的には可能であろうし、二元論的立場ならその因果的な性質に応じて、可能または不可能である)。このことを「我々は意識メーター(consiousness meter)を持たない」などと比喩的に表現することもある[35]。この他者の主観的経験を観測できないという問題は、歴史的には他我問題として議論されてきた(この観測不可能性を他者の内面の不存在にまで極端化した立場は独我論と呼ばれる)。例えば、単純に観測できそうな快感の度合いすら他者には観測できない。テンプレート:要出典

何がクオリアを持つのか

クオリアが存在論的な意味で何であるかとは別として、何がクオリアを持つのか、という問題がある。人間の大人は質感を持つことは一つの前提となるが、そこから距離を置いたものとしてよく議論されるのが以下の三つである。

赤ん坊の意識
テンプレート:要出典
どのような生物が質的経験を持つのだろうか。たとえばゾウは「痛み」の質感を経験するだろうか。またはそうした経験をしているのは人間だけだろうか。こうした問題についての議論にはっきりとした結論は出ていない。
動物の意識(Animal consciousness)
系統学的にヒトに近いチンパンジーゴリラなどの霊長類から、イヌネココウモリなどの哺乳類、さらにトカゲなどの爬虫類、他にもイカタコハエゴキブリミミズミジンコなど地球上には様々な動物がいる。これら動物の中でヒト以外でクオリアを持つ動物はいるのか、いるとしたらそれはどれか、といった議論がある[36]テンプレート:要出典
機械の意識(Machine consciousness、人工知能人工意識
将来のコンピューターが会話を行い、センサーを通じて外部の光の波長を処理できたような場合に、その人工知能は赤さを感じることになるのか[37]。関連する思考実験として、中国脳(人工知能に主観的意識体験は宿るのか)や、サールによって提出された中国語の部屋などがある。

脚注

注釈

テンプレート:複数の問題 テンプレート:Notelist2

出典

テンプレート:Reflist

参考文献

辞事典

日本語辞典
脳科学・神経科学辞典

理学・理工学・医療科学・医工学

Webページ

人文科学・哲学

  • テンプレート:Cite book(感情およびクオリアについての、日本人哲学者および科学者らによる論文集。最後には対談も付けられている。各論文は独立しており、議論されている内容は様々である。)
  • テンプレート:Cite book(翻訳元は テンプレート:Cite book2 ハードカバー版:テンプレート:ISBN2、文庫本版:テンプレート:ISBN2意識のハードプロブレムについて論じた一冊。この本の要旨は以下の三点。1. 脳に関する知見を現在の物理学の枠内で深めていっても、クオリアについての説明は出てこない(この論証に哲学的ゾンビが使われる)。2. ゆえに現在の物理学は拡張されなければならない。3. この拡張は、物理状態とクオリアの間をつなぐ共通項として「情報」を基礎に置いていくようなものになるはずである。当書は現代科学と分析哲学についての一定の知識を前提とした上で、細かい論点についての議論が長々と続く大部の著作であり、初学者が読みきるのはおそらくあまり楽なものではない。)
  • テンプレート:Cite book(翻訳元は テンプレート:Cite book2 ハードカバー版:テンプレート:ISBN2。意識に関する二つの大きな国際会議、ツーソン会議ASSCの会場で、様々な分野の研究者20人にインタビューした記録をまとめた本。クオリア、ゾンビ、ハードプロブレム、自由意志について、それぞれの研究者に「あなたはどう思いますか」という形で質問をぶつける構成。ブラックモアは現代の意識研究に関する知識が豊富で、それぞれの相手に対しかなり突っ込んだインタビューを行っている。クオリアの問題に関し、現在いかに人々の間で意見が割れているか、それを知るうえで有用な一冊。)

日本語のオープンアクセス文献

関連項目

外部リンク

日本語

英語

テンプレート:Nervous systemテンプレート:心の哲学テンプレート:感覚と知覚 テンプレート:Normdaten

  1. テンプレート:Cite journal2
  2. 2.0 2.1 デイヴィッド・チャーマーズハード・プロブレムについて論じた二本の論文。テンプレート:Lang」に対して寄せられた様々な批判に答える形で出されたのが「テンプレート:Lang
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    復刻版 テンプレート:Cite book2
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  15. テンプレート:Cite book
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  17. 17.0 17.1 テンプレート:Cite journal2
  18. テンプレート:Cite book 一巻 テンプレート:ISBN2 2001年、 二巻 テンプレート:ISBN2 2002年4月
  19. テンプレート:Cite book
  20. テンプレート:Cite journal2
  21. テンプレート:Cite journal(上の論文の日本語訳)
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  30. テンプレート:Cite journal2
  31. テンプレート:Cite book 上巻:テンプレート:ISBN2 下巻:テンプレート:ISBN2
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  35. テンプレート:Cite book 上巻:テンプレート:ISBN2 下巻:テンプレート:ISBN2
  36. テンプレート:Cite journal2
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