谷山豊
テンプレート:Infobox scientist 谷山 豊(たにやま とよ〈ゆたか〉テンプレート:Efn 、1927年〈昭和2年〉11月12日 - 1958年〈昭和33年〉11月17日)は、日本の数学者。理学博士。
来歴
埼玉県北埼玉郡騎西町(現在の加須市騎西地域)出身。開業医の家庭に、八人兄弟の六番目として生まれる。
旧制埼玉県立不動岡中学校(現在の埼玉県立不動岡高等学校)を経て、旧制浦和高等学校(現在の埼玉大学)に進学[1]。身体が弱かったため2年休学して1950年に卒業。この頃に高木貞治の『近世数学史談』を読み、数学者を志すようになる。
その後、東京大学理学部数学科、同助手を経て、1958年に東京大学助教授に就任。同年5月、理学博士(東京大学。学位論文の題は『Jacobian varieties and number fields』[2])。10月には婚約が決まり、プリンストン高等研究所からの招聘を受けるが、その矢先の11月17日に豊島区池袋の自宅アパートでガス自殺を遂げる[3]。享年32(満31歳没)。兄と久賀道郎に宛てた遺書は大学ノート3枚に及び[3]、その冒頭には、 テンプレート:Quotation と綴られていたテンプレート:Efn。没後、従七位に叙せられている[4]。墓は善応寺(加須市)。戒名は「理顕明豊居士」[5]。
その後、婚約者・鈴木美佐子も、遺書に「私たちは何があっても決して離れないと約束しました。彼が逝ってしまったのだから、私もいっしょに逝かねばなりません」テンプレート:Sfnと書き残して12月2日にガス自殺を遂げているテンプレート:Efn。翌年1月25日、谷山・鈴木両家による「葬婚式」が行われた。善応寺にある谷山の墓には鈴木の遺骨も埋葬され、墓石には二人の戒名が並んで刻まれているテンプレート:Sfn。
業績
業績として、アーベル多様体の高次元化、虚数乗法論。谷山–志村予想(上に定義された全ての楕円曲線はモジュラーである)がある。前者は谷山の死後志村五郎がその研究を発展させ、後者は志村が定式化した。
谷山による問題(谷山・志村予想の原型)
谷山予想は、1955年9月に栃木県日光市で開かれた代数的整数論の国際会議で、日本の若手の出席者が中心となって未解決の興味ある問題を集め、それを英訳して配布したものの中に問題という形で、今日「谷山予想」と呼ばれているものの原型が含まれていた、といわれている[6]。この時配布されたものは印刷されずに終わった[6]が、後に、英文によるものは『谷山豊全集』pp.147-148に、また日本語訳のものは『数学』第7巻第4号(岩波書店)に掲載された[7]。以下の2つの問題が、谷山予想の原型である。 テンプレート:Quotation テンプレート:Quotation
人物
- 読書家であった。愛読書は、アントン・チェーホフの作品テンプレート:Sfn[8]や『死靈』(埴谷雄高)[8]。後に婚約者となる鈴木美佐子との出会いも、シェイクスピアの作品を原典で読む読書サークルだった[8]。
- 盟友だった志村五郎は、谷山を次のように評している。
また志村は、谷山がうつ病を患っていたことに触れており、死後以下のように述べた:
著書
- テンプレート:Cite book-家族や友人の自費出版で刊行された。
- テンプレート:Cite book-旧版に書簡や論文を加え、新たに著作目録・略伝を付記した。
- テンプレート:Cite book-旧版未収録の書簡や写真が新たに加わった。
共著
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
- テンプレート:Kotobank
- テンプレート:Webarchive
- 難問に挑んだ世界的数学者 谷山 豊(たにやま とよ/ゆたか) | 加須インターネット博物館(加須市教育委員会生涯学習部生涯学習課)
- テンプレート:MacTutor
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 3.0 3.1 「谷山東大助教授が自殺 数学界の権威 “自信失った”と遺書」、読売新聞1958年11月17日付夕刊(東京本社版)、5頁
- ↑ 『官報』第9596号 本紙「叙任及び辞令」(1958年12月15日)
- ↑ 「年譜」、『谷山豊全集』新版 p.379
- ↑ 6.0 6.1 テンプレート:Harvnb
- ↑ テンプレート:Harvnb
- ↑ 8.0 8.1 8.2 「谷山豊再び注目 「フェルマーの最終定理」証明に道筋」、朝日新聞1993年11月16日付夕刊(東京本社版)、3頁