ポアンカレの回帰定理
ポアンカレの回帰定理(ポアンカレのかいきていり、テンプレート:Lang-en-short)、または単に回帰定理とは、アンリ・ポアンカレ(H.Poincaré,1854-1912)により証明された力学系の定理である[1]。ポアンカレの再帰定理[2][3][4]とも呼ばれる。力学系のある状態を出発点としたときに、その時間発展は出発点といくらでも近い状態に無限回戻ってくることを主張する。ポアンカレは天体力学の三体問題の研究の中でこの定理に至り、1890年に発表した[5][6]。
概要
解析力学では力学系のひとつの状態は相空間(例えば質点の位置と運動量を座標とする空間)上の点で表され、その点の近傍はその状態に近い状態の集まりを表し、回帰定理はこの相空間上の力学系に関する定理である。簡単には、「力学系は、ある種の条件が満たされれば、その任意の初期状態に有限時間内にほぼ回帰する」[6]、「ほとんどすべての軌道が出発点の任意の近傍に無限回もどってくる」[1]、「与えられた初期条件に、いくらでも近づき、かつそれを何回でも繰返すことができる」[3]と表現される。 ここである条件、つまり回帰定理の成り立つ条件とは、広く一般的にいえば力学系が保測的(相空間内の点集合の体積が保存されること)で、その軌道が有限領域に限られていることである[3]。例えばニュートン力学の成り立つ系で等エネルギー面を動く軌道(エネルギーが保存される状態の軌道)では回帰定理が成り立つ[3]。 回帰定理が孤立系の現象の厳密な繰り返しを示したと解釈する人もいる[7]。だがこの解釈には2つの意味での誤解がある。第一に、力学系は初期状態の近傍に戻るだけであり、初期状態そのものに戻るとは限らない。第二に、近傍に戻る時刻(時点)の分布は特別な場合を除けば不規則であり、一定の周期は持たない[1]。ポアンカレが示したように多体問題の解の軌道はカオスになることが多く、その場合は運動が周期的繰り返しにはならないのである。
ハミルトン力学による導入
ポアンカレの回帰定理の主張は、ハミルトン力学における相空間上の点の時間発展を数学的に抽象化した測度空間上の保測変換の満たす性質として、定式化される[2][8][9]。 ハミルトン力学では、一般化座標 テンプレート:Math と正準共役な正準運動量 テンプレート:Math の組からなる正準変数 テンプレート:Math によって、系の状態が記述される。テンプレート:Math で指定される状態は相空間上の点であり、その時間発展は相空間の軌道 テンプレート:Math として、表現される。
テンプレート:Math の時間発展は、ハミルトンの正準方程式
で記述される。但し、テンプレート:Math は系のハミルトニアンである。 この時間発展によって
を与える写像 テンプレート:Math が定まる。写像 テンプレート:Math は性質
を満たしており、その集合 テンプレート:Mathは流れ(flow)と呼ばれる。リュービルの定理によれば、相空間上の体積要素
は、 テンプレート:Mathによる時間発展に対して、不変である。これは、テンプレート:Mathが測度を不変に保つ保測変換であることを意味する。
ハミルトニアン テンプレート:Math が時間に陽に依存しない場合、エネルギー テンプレート:Mvar は保存量であり、軌道 テンプレート:Math は
で与えられる相空間内の等エネルギー面 テンプレート:Math [10]内に留まることとなる。この等エネルギー面 テンプレート:Math 内の領域 テンプレート:Mvar の面積は、
で与えられる。ここで、テンプレート:Mvar は テンプレート:Math の面積要素[11]、テンプレート:Math は勾配ベクトルである。すなわち、 テンプレート:Math(とその完全加法族𝔉)に測度 テンプレート:Mvar が導入される。
ポアンカレの回帰定理では、テンプレート:Math の面積が有限であるという仮定
が置かれる。これは、一般化座標 テンプレート:Mvar や正準運動量 テンプレート:Mvarが無限に増大することがないという仮定に相当する。
定理の数学的表現
集合 テンプレート:Math に対し、𝔉を テンプレート:Math 上の完全加法族、テンプレート:Mvar を測度とする測度空間 テンプレート:Math を考える。ここで テンプレート:Math は有限 テンプレート:Math であると仮定する。また、写像 テンプレート:Math を任意の テンプレート:Math について、テンプレート:Math を満たす保測変換とする。テンプレート:Math が テンプレート:Math であるとすると、ほとんど至るところの点 テンプレート:Math に対し、半軌道 テンプレート:Math は無限回 テンプレート:Mvar に戻ってくる[8][9]。負の方の半軌道テンプレート:Math についても同様である。
証明の概略
再帰性の証明
測度が0となる零集合 テンプレート:Mvar を除いて、 テンプレート:Mvar の点 テンプレート:Mvar が テンプレート:Mvar に再帰することを示す。テンプレート:Math が テンプレート:Math であるとする。もし任意の テンプレート:Mathがすべての テンプレート:Math について、テンプレート:Math であるとすると、テンプレート:Math である。任意の テンプレート:Math でテンプレート:Math であるから、テンプレート:Mathは互いに交わらない可算無限列である。よって、測度の完全加法性より
である。一方、
より、前式の両辺は有限であるが、保測性と テンプレート:Math の仮定により、右辺は有限性に矛盾する。ゆえに測度が0となるテンプレート:Mathを除いたテンプレート:Mathに対し、ある テンプレート:Math が存在し、テンプレート:Math となる。
再帰が無限回であることの証明
前述の テンプレート:Mvar の零集合 テンプレート:Mvar に対し、
と定めると、テンプレート:Math であるから、任意の テンプレート:Mathに対し、ある テンプレート:Math が存在し、テンプレート:Math となる。したがって、この論法を繰り返すことができ、テンプレート:Mathに対し、テンプレート:Math は無限回 テンプレート:Math に戻ってくることがわかる。
熱力学との関連
テンプレート:Main ボルツマンは熱力学第二法則を原子論で説明することを試み、H定理を発表した。これに対してエルンスト・ツェルメロ(E.Zermelo)は、1896年にポアンカレの回帰定理を根拠とする、再帰パラドックス(recurrence paradox)を発表して批判した[6]。
量子力学における回帰定理
テンプレート:Main 古典力学におけるポアンカレの回帰定理に対し、その量子力学版といえる量子回帰定理が存在する[12]。この定理によれば、離散的なエネルギー準位のみをもつ量子系は、時間発展により、初期状態のいくらでも近くに戻ってくる。 離散エネルギー準位のみを持つ量子系において、系の状態ベクトルをテンプレート:Mathで表す。このとき、任意の正の定数 テンプレート:Mathと任意の初期時刻テンプレート:Mathに対し、
を満たす時刻 テンプレート:Math が存在する。但し、テンプレート:Mathはテンプレート:Mathで与えられるノルムである。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 『岩波理化学辞典-第5版』(1998)
- ↑ 2.0 2.1 山本、中村 (1998)
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 『物理学辞典-改訂版』培風館(1992/05)
- ↑ 『現代物理数学ハンドブック』(2005)
- ↑ H. Poincaré, "Sur le probléme des trois corps et les équations de la dynamique," Acta Mathematica, 13, 1890, 1-270. テンプレート:Doi
- ↑ 6.0 6.1 6.2 藤原、兵頭 (1995) 11章
- ↑ ピーター・コヴニー;ロジャー・ハイフィールド『時間の矢、生命の矢』草思社(1995/03) p19,70
- ↑ 8.0 8.1 大沢、湯川 (1973)
- ↑ 9.0 9.1 十時 (1971)
- ↑ 相空間の2n-1次元の超曲面をなす
- ↑ 2n-1次元の超曲面 テンプレート:Math の体積要素である。
- ↑ P. Bocchieri and A. Loinger,"Quantum Recurrence Theorem," Phys. Rev. 107, 337 (1957)テンプレート:Doi
参考文献
日本語の文献では再帰定理となっている場合と回帰定理となっている場合とがあるので注意すること。
- 新井朝雄『現代物理数学ハンドブック』朝倉書店(2005/06) ISBN 4-25-413093-7
- 大沢文夫、湯川秀樹『古典物理学II (岩波講座現代物理学の基礎 2)』岩波書店(1973)
- 十時東生『エルゴード理論入門 (共立講座・現代の数学30)』 共立出版(1971)
- 長倉三郎、他(編)『岩波理化学辞典-第5版』岩波書店 (1998/02)
- 藤原邦男、兵頭俊夫『熱学入門―マクロからミクロへ』東京大学出版会 (1995/06) 11章 ISBN 4-13-062601-9
- 山本義隆、中村孔一『解析力学1-(朝倉物理学大系)』朝倉書店 (1998/09) ISBN 4-25-413671-4