冪等元
抽象代数学において、二項演算 ∗ をもった集合の元 テンプレート:Mvar は テンプレート:Math であるときに冪等元(べきとうげん、テンプレート:Lang-en-short)あるいは単に冪等(テンプレート:Lang-en-short)と呼ばれる。これはその特定の元における二項演算の冪等性を反映している。

環論において(積に関する)冪等元は特に重要である。一般の環に対して、冪等元は加群の分解や環のホモロジー的性質と深く関わっている。この概念は テンプレート:Harvtxt によって導入されたテンプレート:Sfn。
本記事は環論的な意味の冪等元を扱う。
定義
環の冪等元(あるいはべき等元)とは テンプレート:Math を満たす元 テンプレート:Mvar であるテンプレート:Sfn[注釈 1]。ふたつの冪等元 テンプレート:Mvar と テンプレート:Mvar は テンプレート:Math であるとき、直交 (orthogonal) するというテンプレート:Sfn。たとえば テンプレート:Mvar が(単位元をもつ)環の冪等元ならば、テンプレート:Math もそうであり、テンプレート:Mvar と テンプレート:Mvar は直交する。テンプレート:Mvar を環 テンプレート:Mvar のイデアルとする。剰余環 テンプレート:Math における冪等元 テンプレート:Math は、テンプレート:Mvar のある冪等元 テンプレート:Mvar が存在して テンプレート:Math となるとき、テンプレート:Mvar を法として持ち上がる(lift modulo テンプレート:Mvar)という。
たくさんの特別な冪等元が例の節の後で定義される。
例
- 全行列環の冪等元
テンプレート:Mvar 次正方行列のなす全行列環を考える。テンプレート:Mvar を単位行列、テンプレート:Math 成分のみが 1 で他の成分はすべて 0 の行列を テンプレート:Mvar とおく。これらは冪等元である。さらに中心直交冪等元分解
を与える。一般に全行列環の冪等元は射影行列とも呼ばれる。
- テンプレート:Mathの冪等元
平方因子を持たない整数 テンプレート:Mvar に対して、テンプレート:Mvar を法とする整数の剰余環 テンプレート:Math を考えよう。中国剰余定理によって、この環は テンプレート:Mvar の素因数 テンプレート:Mvar を法とする整数の剰余体の直積に分解する。これらの直積因子の冪等元は 0 と 1 に限ることは明らかである。つまり、各因子は 2 つの冪等元をもつ。したがって テンプレート:Mvar が テンプレート:Mvar 個の因子をもてば、 テンプレート:Math は テンプレート:Math 個の冪等元をもつ。
6 を法とするの整数の剰余環 テンプレート:Math に対してこのことを確かめよう。6 は 2 つの因数(2 と 3)をもつから、22 個の冪等元をもつはずである。
- 02 = 0 = 0 (mod 6)
- 12 = 1 = 1 (mod 6)
- 22 = 4 = 4 (mod 6)
- 32 = 9 = 3 (mod 6)
- 42 = 16 = 4 (mod 6)
- 52 = 25 = 1 (mod 6)
これらの計算から、 テンプレート:Math において 0, 1, 3, 4 は冪等元であり、2 と 5 は冪等元でない。これは後述する分解の性質を証明している。テンプレート:Nowrap であるので、環の分解 テンプレート:Math が存在する。テンプレート:Math の単位元は テンプレート:Math であり、テンプレート:Math の単位元は テンプレート:Math である。
- 他の例
テンプレート:仮リンク の環における冪等元のテンプレート:仮リンクが存在する。
特別な冪等元
以下は重要な冪等元の部分的なリストである。
- 自明な冪等元 (trivial idempotent) —— 0 と 1 のどちらかのことテンプレート:Sfn。
- 中心的冪等元 (central idempotent) —— 中心に含まれる冪等元のことテンプレート:Sfn。
- 原始冪等元 (primitive idempotent) —— 加群 テンプレート:Mvar が直既約となる環 テンプレート:Mvar の冪等元 テンプレート:Mvar のことテンプレート:Sfn。左右対称な別の特徴づけもある: テンプレート:Mvar が テンプレート:Math と 0 しか冪等元をもたないこと。
- 局所冪等元 (local idempotent) —— テンプレート:Mvar が局所環となる環 テンプレート:Mvar の冪等元 テンプレート:Mvar のことテンプレート:Sfn。加群 テンプレート:Mvar は直既約なので、局所冪等元は原始的冪等元でもある。
- 右既約冪等元 (right irreducible idempotent) —— 加群 テンプレート:Mvar が単純となる環 テンプレート:Mvar の冪等元 テンプレート:Mvar のことテンプレート:Sfn。シューアの補題から テンプレート:Math は可除環であり、したがって局所環であるので、右(そして左)既約冪等元は局所冪等元でもある。
- 中心的原始冪等元 (centrally primitive idempotent) —— ふたつの 0 でない直交する中心的冪等元の和として書けない 0 でない中心的冪等元のことテンプレート:Sfn。
- 全冪等 (full idempotent) —— テンプレート:Math を満たす環 テンプレート:Mvar の冪等元 テンプレート:Mvar のことテンプレート:Sfn[1]。
- 分離冪等元 (separability idempotent) —— 分離多元環参照。
任意の非自明な冪等元 テンプレート:Mvar は零因子である(なぜならば テンプレート:Math とすれば テンプレート:Mvar も テンプレート:Mvar も 0 でないが テンプレート:Math だからだ)。これは整域や可除環は非自明な冪等元をもたないことを示している。局所環も非自明な冪等元をもたないが、これは異なる理由による。環のジャコブソン根基に含まれる唯一の冪等元が 0 だからである。
冪等元による環の特徴づけ
- 環が半単純である必要十分条件はすべての右(またはすべての左)イデアルがひとつの冪等元によって生成されることであるテンプレート:Sfn。
- 環がフォン・ノイマン正則である必要十分条件はすべての有限生成右(またはすべての有限生成左)イデアルがひとつの冪等元によって生成されることである。
- 環 テンプレート:Math がテンプレート:仮リンクである必要十分条件は中心的冪等元が自明な冪等元のみであることであるテンプレート:Sfn。
- 環が半完全環である必要十分条件は単位元が直交する局所冪等元の(有限)和へ分解できることであるテンプレート:Sfn。
- 環が右直和成分に関して昇鎖条件を満たすことと左直和成分に関して降鎖条件を満たすこととどの2つも直交するような冪等元からなる各集合が有限であることは同値である。
- すべての元が冪等元であるような環はブール環と呼ばれる。ブール環は可換で標数2である。
- すべての部分集合 テンプレート:Mvar の右零化イデアル テンプレート:Math がひとつの冪等元によって生成されるような環はテンプレート:仮リンクと呼ばれる。条件がすべての一元部分集合に対してのみ成り立つならば、その環は右テンプレート:仮リンクと呼ばれる。これらの環は両方とも、乗法単位元をもたない場合でさえ興味深い。
- すべての冪等元が中心的な環はアーベル環(Abelian ring)と呼ばれる。この環は可換とは限らない。
- すべての冪等元がジャコブソン根基を法として持ち上がるときに SBI環 (SBI ring) あるいは Lift/rad ring と呼ばれる。
- テンプレート:Mvar が環 テンプレート:Mvar の冪等元であれば、テンプレート:Mvar は再び環になり、その乗法単位元は テンプレート:Mvar である。環 テンプレート:Mvar はしばしば テンプレート:Mvar の corner ring と呼ばれる。corner ring は自己準同型環 テンプレート:Math によって自然に生じる。
加群の分解における役割
テンプレート:Mvar の冪等元は テンプレート:Mvar 加群の分解と重要なつながりがある。テンプレート:Mvar を右 テンプレート:Mvar 加群とし、テンプレート:Math をその自己準同型環とすると、テンプレート:Math であることと、テンプレート:Math かつ テンプレート:Math となるような冪等元 テンプレート:Math が唯一つ存在することは同値である。すると明らかに、テンプレート:Mvar が直既約であることと、テンプレート:Mvar の冪等元が 0 と 1 のみであることが同値であるテンプレート:Sfn。
テンプレート:Math のとき、自己準同型環は テンプレート:Math であり、各自己準同型はある 1 つの固定された環の元の左からの積として生じる。上で述べたことをこの場合に言い換えると、右加群として テンプレート:Math であることと、テンプレート:Math かつ テンプレート:Math となるような冪等元 テンプレート:Mvar が唯一つ存在することは同値である。したがって加群としての テンプレート:Mvar のすべての直和成分はひとつの冪等元によって生成される。
テンプレート:Mvar が中心的冪等元であれば、corner ring テンプレート:Math は テンプレート:Mvar を乗法単位元にもつ環である。冪等元が テンプレート:Mvar の加群としての直和分解を決定するのとちょうど同じように、テンプレート:Mvar の中心的冪等元は テンプレート:Mvar の環の直和としての分解を決定する。テンプレート:Mvar が環 テンプレート:Math の直和であれば、環 テンプレート:Mvar たちの単位元は、テンプレート:Mvar の中心的冪等元であり、どの 2 つも直交していて、それらすべての和は 1 である。逆に、和が 1 でどの 2 つも直交しているような テンプレート:Mvar の中心的冪等元 テンプレート:Math が与えられると、テンプレート:Mvar は環 テンプレート:Math の直和である。なので、とくに、すべての中心的冪等元 テンプレート:Math は テンプレート:Mvar の corner ring テンプレート:Mvar と テンプレート:Math の直和としての分解を与える。したがって、環 テンプレート:Mvar が環として直既約であることと、単位元 1 が中心的原始冪等元であることは同値である。
単位元の直交する中心的原始冪等元の和への分解を帰納的に試みることができる。もし単位元が中心的原始冪等元であればすでに分解できている;そうでなければ、 0 でない直交する中心的冪等元の和であり、以下、各因子に対してこの手順を繰り返す。ここで起こりうる問題は、この手順が際限なく続き、直交する中心的冪等元の無限族が得られることである。「直交する中心的冪等元の無限集合を含まない」という条件は、環に対する有限性条件の一種である。たとえば環が右ネーターであることを仮定するなど、その条件が満たされるようにする方法はいくつもある。各 テンプレート:Mvar が中心原始冪等元であるような分解 テンプレート:Math が存在すれば、テンプレート:Mvar はどれも既約であるような corner ring テンプレート:Mvar の直和であるテンプレート:Sfn。
体上の結合多元環やテンプレート:仮リンクに対して、テンプレート:仮リンクは多元環の可換冪等元の固有空間の和としての分解である。
対合との関係
テンプレート:Mvar が自己準同型環 テンプレート:Math の冪等元であれば、自己準同型 テンプレート:Math は テンプレート:Mvar の テンプレート:Mvar 加群対合である。つまり、テンプレート:Mvar は テンプレート:Math が テンプレート:Mvar の恒等自己準同型であるような テンプレート:Mvar 準同型である。
テンプレート:Mvar の冪等元 テンプレート:Mvar とそれに伴う対合 テンプレート:Mvar から、テンプレート:Mvar を左加群と見るか右加群と見るかに応じて、加群 テンプレート:Mvar の 2 つの対合が生じる。テンプレート:Mvar が テンプレート:Mvar の任意の元を表すとき、テンプレート:Mvar を右 テンプレート:Mvar 準同型 テンプレート:Math と見ることも左 R-準同型 テンプレート:Math と見ることもできる。前者ならば テンプレート:Math であり、後者ならば テンプレート:Math となる。
この過程は 2 が テンプレート:Mvar の可逆元であれば逆にできる[注釈 2]: テンプレート:Mvar が対合であれば、テンプレート:Math と テンプレート:Math は直交冪等元で、それぞれ テンプレート:Mvar と テンプレート:Math に対応する。したがって、2 が可逆であるような環に対して、冪等元は対合と 1 対 1 に対応する。
テンプレート:Mvar 加群の圏
冪等元の持ち上げは テンプレート:Mvar 加群の圏に対してもまた主要な結果を持っている。ジャコブソン根基 テンプレート:Math に含まれるイデアル テンプレート:Mvar を法としてすべての冪等元が持ち上がることと、テンプレート:Mvar 加群として テンプレート:Math のすべての直和成分が射影被覆を持つことは同値であるテンプレート:Sfn。冪等元は mod テンプレート:仮リンクや テンプレート:Math が [[完備化 (環論)#クルル位相|テンプレート:Mvar 進完備]]であるような環ではつねに持ち上がる。
冪等元の持ち上げは特に テンプレート:Math ときに最も重要である。半完全環のさらに別の特徴づけは、 テンプレート:Math を法として冪等元が持ち上がるような半局所環であるテンプレート:Sfn。
半順序構造
環の冪等元がなす集合に対し半順序を
で定めることができるテンプレート:Sfn。このとき 0 は最小の冪等元であり、1 は最大の冪等元である。直交冪等元 テンプレート:Mvar と テンプレート:Mvar に対し、テンプレート:Math もまた冪等元であり、テンプレート:Math および テンプレート:Math が成り立つ。原始冪等元はちょうどこの半順序のテンプレート:仮リンクであるテンプレート:Sfn。
上述の半順序を環 テンプレート:Mvar の中心的冪等元がなす集合 テンプレート:Math に制限すると、ブール代数の構造を与えることができる。2 つの中心的冪等元 テンプレート:Mvar, テンプレート:Mvar に対し、結びと交わり、補元はそれぞれ
によって与えられる。すると順序は単に テンプレート:Math ⇔ テンプレート:Math となり、結びと交わりは テンプレート:Math および テンプレート:Math を満たす。環 テンプレート:Mvar がフォン・ノイマン正則かつ右テンプレート:仮リンクであれば、 テンプレート:Math は完備束であるテンプレート:Sfn。
脚注
注釈
出典
参考文献
- テンプレート:Citation
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- “idempotent” at FOLDOC
- テンプレート:Citation
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- テンプレート:Cite book
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- テンプレート:Lang Algebra p. 443
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- ↑ たとえば半完全環の basic idempotent はその例である テンプレート:Harv。